善悪是非

(講演テーマより抜粋)
人は幼少期からの教育によって物事の善悪を教え込まれる。この場合における子供に対しての善悪是非は、その子供が自立的に社会性を培うための基礎を育むことであり、親や教師の私情が含まれない限り、子供の絶対的価値を何ら否定するものではなく、ここでいうところの善悪是非判断には当たらない。しかしながら、幼少期に吹き込まれたこのような価値観は概して成人してからも根強く残り、日常における様々な機会においてほぼ無意識に個人としての善悪判断がなされ、その延長として事象・対象への是非判断が行われる。

本来、最低限の善悪認識を互いに備えているであろうという前提における大人同士、もはやそのような価値判断は不要であり、むしろそのような価値判断では通じ合えない。そしてそれは、捉える対象が自己である場合も同様である。

道理の在り方は社会や時代、さらには個人の違いによっても大きな隔たりが生じる。近世の儒学者やドイツ観念論者について言われるように、絶対的な理性や道理の在り方を説くものほど互いに否定し合い、攻撃し合う運命にあることは周知の事実である。

現実を道理や理性で捉えようとする姿勢、つまり批判的・解釈的に捉えようとすることがそもそもの不幸の始まりなのである。

また、時に人は「自分は何故こんなこともできないのか」や「自分はこんな立派な人間であり、他者もそれを認めなければならない」といった自己嫌悪や自己顕示に駆り立てられるのであるが、このような現象も超自我的な観念を主体とした心理状態から来る自己の歪みであり、それらは表裏一体の姿である。(ここにおいて「自己の歪み」と表現したのは、理想と現実の狭間における自己の葛藤を指す。)

自己に対するべきは善悪是非ではなく、その誠実さに対する惜しみない信頼であるべきではないだろうか。そして自己に対する善悪是非を退けることができれば、おのずと他者に対しても同様に振る舞うことができるはずである。

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