2023年7月11日
同じ立場あるいは権利者の複数の人間が平等に、
いわば”民主的”に主張を通して物事を決めることを理想とするドイツ人に対し、
日本人は”大将”をはっきりさせ、その人物に決定権とそこへの責任を集中させた上で、
その下にある現場の人間が物事を動かすという、
ある種の”官僚的”組織形態を意思決定の基本とする傾向にある。
”民主的”組織だと、当事者それぞれが主体的に意見や判断を行うことで、
個々人が納得のいくバランスにおいてプロジェクトを進めることが可能になるかもしれない。
一方で、重要事項やトラブル、
誰かのミスについての責任の所在がはっきりしないことで、
各々が自らの正当性を主張する反面、
それぞれに責任を押し付け合うという矛盾した状態に陥ることが多い。
”官僚的”タテ社会を現代にいたるまで積極的に重んじる日本社会においては、
性善説とそこへの信頼こそがその構造のバックボーンとなるのであり、
組織が機能するかどうかは、ひとえにトップの人物の人となり、人格に依拠してきた。
自身の上に立つ人物への全幅の信頼を置けるからこそ、
下位の人間も携わるプロジェクトに全身全霊を捧げることが可能となるのであり、
進んで誰かの右腕となることができる。
ただ、これからの社会を担ってゆくZ世代においては、
このような「自己犠牲の美徳」というような感覚は希薄となり、
世代の違いからくる価値観の摩擦が、
今後の日本社会においてどのように解消され得るのかが大きな課題となるのであろう。
一方でジェネレーション・ギャップとは、
人類がいかなる時代においても経験してきたことであり、
歴史においてここにどのような”潤滑油”が用いられてきたかを精査することができれば、
おのずと打開策も見つかるのかもしれない。
組織において「ヒト」とは「要」であり、
要とはなくてはならないものでありつつも、それを要する人物の所有物でもない。
これが厄介な事実であり、難解なトラブルの原因となり得る。
組織に属する人間に甘い考えが蔓延るとそれらは特に厄介になる。
責任者自身がそれにより損害を被るだけならば自損事故で完結するから問題ないが、
それが下位の人物やクライアントに負の影響を及ぼすこともある。
もっと厄介なのは、
下位の人物が自己の甘い考えを責任者に対して押し通そうとする場合である。
日本人は本来「素直さ」を重んじてきた民族であり、
ドイツ人は「ロジック」を重んじてきた。
「ここだけは絶対に譲れない」という芯の部分を確立し、
それ以外のものはあえて流れに任せ、余分なものをシャープにそぎ落としてゆく。
そのような明確な二元性を日本文化は本質的に備えている。
それに対し、物事の細部に至るまでの整合性を追求し、
解剖学的に全体の有機性を担保することを試みるのがドイツ文化。
陰を、陽を以て釣り合わせ、
ネガティブな要素をポジティブなものの発達の機会と捉え、
ある種の楽観的な二元性の下で実存を成すことが日本民族の理念。
確かなコンセプト、ロジックの構築を以てネガティブな要素や矛盾、
ミスや過ちを回避しようとするのがドイツ民族の根本。
日本的発想でいえば、ドイツ的発想は”頭ごなし”。
物事の本質を感覚や感性において把握するのではなく、
観念的に評価することで表面的にしか捉えられず、
かえって本質そのものを見誤る危険をはらむ。
ドイツ的発想からすると日本的発想は無知かつ妄信的。
全体主義的風潮の中で個人の権利が阻害される危険をはらむ。
日本人からすると、その懐疑心こそが”知性への妄信”であり、
またこのような日本人の判断もドイツ人には”稚拙的”と認識される。
それぞれの文明や時代、民族性に特徴的な各々の社会論や組織論は、
いかにして効果的かつ革新的に繋ぎ合わせることができるのか。
そこに明確な糸口を見出すことこそが、新たな時代と価値を切り拓いてゆく。