2018年9月30日
欧米の教育においては人権や平等といった価値観が主題とされ、
知性や理性によるモラルの定義、個人の人権ばかりが叫ばれる。
その結果、同情心や共感、信頼といった感覚は無用の扱いを受け、
むしろそれらは皮肉や優劣の次元で捉えられ、
もはや倫理としての意義すら失おうとしている。
人と人とのつながりが観念の妄信へと取って代わられつつあるのだ。
人は自己の正当性の保障・主張、他者のそれへの批判・攻撃の方法ばかりを教えられ、
人の温もり、つながり、権利の垣根を超えた支え合いはキレイ事、弱虫の論理、
負け犬の幻想といったイメージを植え付けられる。
これでは人の心はますます孤独になり、冷たく委縮し、エネルギーを失ってゆく。
自然災害や疾病など、やむを得ないことが誰の目にも明らかな時こそ、
人々は情を持ち得るが、
互いの利害が相反する状況などにおいては、
決して心情としての歩み寄りを見せることはなく、
論理や権利という一見して客観的な、仮想的な事物を拠り所として、
相手の人間性、行いを悪や欠落として徹底的に断罪する。
「相手の立場になって…」などという言葉は事なかれ主義者の戯言として切り捨てられ、
個々人の置かれている様々な事情が鑑みられることなどまずない。
一方日本においては、
体罰がどう、暴言・怒号がどうという議論において顕著であるが、
教育上の接し方に過度な人権を求めることが定着しつつあり、
その結果、デリケートな人間の側面をさらにデリケートに扱い、
人間としての強さや信頼、勇ましさはさらに失われつつある。
元々全幅の信頼に甘んじる関係においてこそ厳しい指導も成り立っていたのであり、
それらが崩れ去ってしまったのは、指導方法の是非よりも、
むしろ根本的な信頼関係、温もりや繋がり、人情や慕い、責任や甘えの関係の消失にこそ、
決定的な原因があるのではないか。
「感情的に叱ってはいけない」などというが、
人という存在の真理ともいうべき感情や孤独、感受性などの実情を避けて、
どうして大人が子供を人足らしめることができよう。
それでは子供たちはますます気配りや心遣いのない、他者を顧みることもない、
自己の権利や正当性だけに囚われた哀れな人間へと育ってゆく。
いや、たとえ本人が他者を思い遣りたいと思っても、
自己の権利や正当性を投げ出してまで思いを貫く勇気や、
自己犠牲の精神を持つこともできないのだ。
人の肌感覚や感受性ではなく、理屈として道理をプログラミングする欧米教育に蝕まれ、
大人も子供も、心から接するにはどうすればいいのかがわからなくなってしまっている。
今一度原点に立ち還り、人間としての根本的な在り方を問い直すことが、
現代の世の中には求められるのではないだろうか。