2017年9月22日
欧米人は知性において自己を担保する傾向にあり、
日本人は属性においてそれを担保する傾向にある。
どちらも下地が定まらず、相対価値のみに依拠し、
妄信と自己否定の恐怖からの他者攻撃を誘発しかねない。
「属性」は何よりも和合へと置き換えられなければその本質から乖離する。
和を以て貴しとし、経験を基にした場の洞察を以ってことに臨めば、
生きる意味や、生きるための道筋が明らかになっていく。
時の流れに抗わなければ、天地不定の下に「定め」が現れる。
運命を定めと捉えれば、思念は不安定となり、
思念を常識と捉えれば、社会は非常識の巣窟ということになってしまう。
天地不定において、思念は流れ去るものであり、
思念においては、天地とはあくまで無常なのだ。
そこに生じる迷いを見つめることを通して心情を深め合うことが、
人との触れ合いにおいての和へとつながる。
承認されていないとすれば、その「承認していない」のはまず自分自身である。
自己の迷いを見つめ、迷いを通して人を知り、
迷いを落ち着かせる「地」を見出す。
天地不定は抗うことのできない運命であり、
自我や思念は、物の見方、考え方次第でいかようにも変化する。
まずは迷いが落ち着くべき視座を築くことが大切で、
それは常に天地一体への帰属に依拠するものである。
迷いが生じるのは人としての弱さゆえであり、
人としての弱さこそは生を授かったものの実情、宿命である。
つまり弱さそれこそが「定め」に属するものであり、
生きるということの神秘なのだ。
情が想いを発現し、情熱を焚き起こすことこそが心身一体を生むのであり、
主体的な自己の承認において囚われを振り払い、
決然と生き抜くことを可能にする。