2017年4月17日
より美しく、より洗練され、より優れたものを求めるドイツ人の“審美感”には、
ドイツ社会あるいはその日常の平凡に対する不信、不満、不安が投影されている。
彼らにとっては社会における平均的日常が著しい「欠如」を抱えるものであり、
そこに生じる潜在的な絶望感を紛らわせてくれる理想像を具現化するものこそ、
“審美感”に他ならない。
確かに美的感性は人生をより彩り豊かにアレンジする能力があり、
人々の感動、喜びは美的感性に基づくことが多分にある。
ただ、美的感性が「知性や理性による解釈」を通して構成されると、
その理屈っぽさとドグマにおいて現実離れした理想郷を追い求めるようになり、
実感を逸脱した「快楽としての知性依存」という中毒症状を招く。
感性が実感や現実に即していないとそれが満たされることはなく、
日常における「満たされない感覚」は一種の禁断症状と捉えることができる。
また、キャリアとそこに生じる資本によって富を築き、
理想を具現化し、“審美感”を満たしてしまうと、
今度はそれらを失うことへの不安に苛まれ、平穏な精神が妨げられてしまう。
キャリアは一人の人間の社会的立場の飛躍であり、
それがライセンスや肩書に依拠している場合、
個としての実体を反映していないこともあり得る。
それは一つの歯車が外れることによっていとも簡単に崩れ去ってしまうような、
一種のイリュージョンかもしれない。
そんな危険な地帯に深く根を下ろし、“審美感”の充足に腐心することは、
自己の崩壊を招きかねない。
自己批判を美学とするドイツ民族特有の病的な不安症がここに起因することはまず間違いない。
そこから抜け出すためには、
まず何より人間が本来持ち得ている自然な感性に回帰することが必要ではないだろうか。
日本人なら、子供たちこそ豊かな感性を備えていると直観する。
肌感覚で日常を生き、人生を謳歌することが許されるならば、
人々はもっと穏やかで温かな日々を送ることができるのではないだろうか。