2017年5月6日
不安で満たされた世界では、誰もが自らの保身に徹し、
相手を悪と決めつけ、理解しようという器量すら持たない。
慢性的な不安に苛まれ、それら全てがあたかも特定の人物に起因するかのように解釈し、
その“成分”を除去することへの衝動を蓄積させる。
不安は常に他者の責任となり、懐疑心と絶望を募らせる。
人は社会に対する不信を増大させ、権利と感情のしもべとなる。
家族であろうと友人関係であろうと、互いの失敗や未熟さを批判し合い、
攻撃し合い、またそれにおびえている。
自己に自信がなく、それでいてそれがあるかのように振る舞い、
他者の間違いを探しては、自身の間違いを隠ぺいする。
全ては不安世界がもたらした自己否定の賜物である。
この負の連鎖を断ち切るためにはまず何が求められるのか。
非情な自己否定をもたらす「知性」からの脱却ではないだろうか。
無意味な自己否定はもうやめよう。
いかに無知でも、失敗を繰り返しても、それを涼しい表情で受け止め、
それでいて自己の誠実さを信じるのである。
さもなければ自己はそこから目をそらし、何も学ぶことができない。
ただ自己を信じ切るのである。
さもなければ自己が世界に存在する価値すら否定してしまう。
自己の誠実に絶対的信頼を置けば、自己がこの世界に存在する意味が見え、
この世界の意味が見えてくる。
自己への絶対的な信頼があれば、他者も同じ「人間」であることが見え、
その人間性への信頼が見えてくる。
同じ人間同士、いかに相手が理解し難くとも、人間である自己に絶大な信頼があれば、
まずはその人間性を以って他者との信頼関係を築いていける。
もしも相手を「人間」と認められなければ、その関係を絶つ他はない。
世の中には人間であることをやめてしまった怪物もいるだろう。
ただ、そんな怪物に出くわすことはほとんどない。
それよりもまずは人間を信じていよう。ナイ-ヴでいよう。
無垢ではつらつとした子供心が、その価値を見失わないために。
そしてこの世界に生きる意義と喜びが失われないために。