(講演テーマより抜粋)
個人による善悪是非判断は、「判断力」に普遍的整合性が認められる場合において絶対的な主体性を保ち得るのであるが、実際は人の判断に普遍的整合性などは生じ得ず、むしろ常日頃から矛盾だらけであることは明らかであろう。自己の健全な存立のためには、主体性は「判断力」において担保されるべきではない。
日本神話においては、登場する神々に性質あるいは能力としての普遍的な整合性を見出すことはできず、それどころか最高神とされる天照大神でさえ、様々な場面で勘違いを起こすのである。
日本の神々に“誤性”という人の本質が投影されていることは、日本人が古来より間違いを犯すこと自体に罪の意識を感じるのではなく、むしろ人を人足らしめる真理と捉え、ヨーロッパのそれのような全知全能の神というものを理想としてこなかったことを如実に物語る。
また、判断はよく必然性と結び付くが、必然性が可能性の範疇を超えないことも日常生活を垣間見れば周知の事実であろう。
「判断」においては、「可能性の選択」としての実質や、下した判断に伴う責任において主体性が認められるものであり、「判断力」においてではない。
このような日本的発想は、ドイツ語圏における価値観との間に明確な相違点を見出す。
ドイツ語における「必然性Notwendigkeit」は、「必要性Nötigung」とほぼ同義語として用いられ、仮に「必要」という言葉の定義に「絶対的」というニュアンス(絶対に要る)を認めることが許されるならば、ドイツ語圏における「必然性」の観念的な絶対的価値が見出される。もしドイツ人が自らの形而上学的信念に則って、“Die Existenz des Gottes ist notwendig.“と説くならば、この文は、「神の存在とは必然」であり、「必要」でもあるということを意味するのである。
そして、人としての潜在的可能性によって出現する理性は、まさに人としての必然なのであり、このような連関から、ドイツ語圏における理性の絶対性という基本的価値観が垣間見られるのである。(現にドイツ人は「理性的vernünftig」という言葉を頻繁に「必然的」という意味で使う。)
これに対し、日本の古来の伝統的価値観においては、「理」とは捉え難いものであり、誠実という純真な在りようが道理に変わるものとして重んじられてきたのである。
天地のはたらきによって生成された人において、天地に対する誠実な在りようとは、相良曰く「主体的・内面的な生き方において捉えられる」ものであり、「心を尽くす」ことである。このように「自然のまま」に生きること、つまり天地の心と一体となることこそが、自己の最も根源に生きることとされ、即ち自己とは天地の自己へと通じるのである。この意味において、物事の善悪是非は「おのずから明らか」となるのであり、それらは個人によって意図的に判断されるものではないということが導き出される。