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音楽

2012年2月29日
音楽は「音」を「楽しむ」と書く。
音楽は楽しくなければならない。
もちろんそれは「味わう」という意味での楽しみであり、
いつも陽気な楽しさがあるわけではない。
この意味での楽しさにおいて、
音楽に原始的な定義を与えることができる。
むしろ「音の楽しみ方」という上で、
その形態は実に多種多様な様相を呈する。
極めて原始的であるこの定義は、その単純さにも関わらず、
常に意識され、注意深く保たれなければならない。
単純であるがゆえ、その基礎は忘れられやすく、
おろそかに扱われがちである。
それは単純ではあるが抽象的で、
時としてそれを具現化することが容易ではないからである。
常に楽しくなくてはならない。しかしそれは具体的にどう楽しいのか。
その答えは千差万別で、だからこそ音楽という活動の中では、
絶え間なく考え続けられなければならない。
楽しくなくては音楽ではないのである。
また楽しさがそうであるように、
楽しくないことも他人の音楽に影響する。
奏者が楽しくなければ聴者も楽しめない。
先生が楽しくなければ生徒も退屈を感じる。
緊張や恐怖は、楽しくなければすぐに音や表情に現れる。
奏者が楽しくても聴者が楽しくないとすれば、
それは概ね聴者の問題である。
もちろん、奏者は聴き手が理解し、その楽しさが伝わることを目的の一つとして、
その演奏技術を養うものだが、
音楽を聴くという行為において、
その聴き手の「楽しみ」の条件に奏者との明らかな食い違いが生じていれば、
いくら奏者が努力したとしてもそこに楽しみの共有は成立しない。
奏者に努力がないとすればそれ以前の問題だが、
そんな奏者はほとんどいない。
聴くという行為に楽しみを見出すことにも、
多種多様な「音の楽しみ方」が求められる。
奏者が自分の音楽に楽しみを見出せないとすれば、
それは楽しみ方を見失っているに過ぎない。
楽曲の完成度のみに音楽を求めれば、
その難易度の壁に楽しさを見失う。
楽曲の雰囲気の良さのみに音楽を求めれば、
理論や様式の理解の必要性を前に楽しみを見失う。
楽しみ方とは常に模索され、発見されなければならない。
また、極端に具体的な要素のみを以って定義されてもいけない。
こだわりと多様性の兼ね合いによって、
「楽しみ方」はより柔軟に見出されなければいけない。

優しさ

2010年1月23日
追い詰められた人がどういう精神状態にあるのか、よく知っている。
不安で眠れない日々が続く。
そんな時は、周りに気を配る余裕なんて持ち合わせていない。
自分のことで精一杯だ。
危険なものには極力近づきたくないし、危害を及ぼしかねないものには敵意を催す。
神経は尖っている。そしてとても柔くて脆い。
そんな時は周りが支えてあげないといけない。
広い心でその人を理解しないといけない。
たとえその人が身勝手な行動をとったとしても、寛大にそれを受け入れないといけない。
もともと誠実な人間が自分本位な行動をとる時、そこには必ず理由がある。
追い詰められた人を断罪するようなことをしてはいけない。
そのような寛大な心を持つため、人は強くならないといけない。
強くなくては優しさは得られない。
たくさんの辛さを味わい、それを乗り越えてこそ、人は強くなれる。
そして思いやりのある人間になれる。

意義

2009年11月11日
生きることの意義を問いかける。
生きることの意義を体現するとき、人はいつもたった独り。
その世界から逃げてはいけない。
生きることは大変だ。困難と孤独に満ちている。
現実に呑みこまれてしまうと“甘いもの”にすがりたくなる。
しかしそれは、孤独に苛まれた自分自身が生み出した幻想でしかない。
手に入らないものを求めているうちに、心は疲れ果て、
自分自身を見失ってしまう。
もし“甘いもの”が手に入ったとしても、その先には何もない。
束の間の現実逃避を得た先は、やはり目指すものを見失った自分だ。
生きることの目指す先はもっと遠くにある。
今、目の前の道を進むと、その先には必ず“自らへの意義”が存在する。
時間の流れに臆することはない。前を見つめていればいい。

独自性

2009年7月8日
人にはそれぞれ「自分しか持ち合わせていないもの」がたくさんある。
それは経験、学問、思考、感性といろいろな分野において存在し、
他者には決して真似のできない独自性が備わっている。
他者の持つ独自性を欲しがるのではなく、
自身の独自性がどこにあるのかを把握し、
それをいかに活用するかが自身のフィールドでの成功を左右する。
今、自分の目指す方向性において、自身の独自性がいかに発揮されるかが問われている。

方向性

2009年6月28日 (アウクスブルク大学入学試験、合間の週末にて)
この方向性を目指し始めてからすでに3年目を迎え、
自らのアイデンティティも沢山の経験や出会いを通して磨かれ続けてきた。
今、このミュンヘン中央駅にあるスターバックスで過ごす時間を通して振り返ってみると、
自らを窮地に陥れる出来事や、自らの存在意義を大きく成長させるチャンスなど、
本当にたくさんのことに出会った。
そして今ここに自身がいることは、それら沢山の出来事こそを自らの血肉を養う糧としてきたことを示す大きな証となる。
ほんのささいな、小さな小さな行いの積み重ねが、外の世界に漂うチャンスを引き寄せ、
またそれが、自らの進む盲目の道のりを照らすかすかな月明かりとなって俺を支えてきてくれた。
自らの方向性は確かに存在する。
躍動は今加速する。まさにこれまでの積み重ねを土台と捉えて基礎に据え、
また新たなアイデンティティが目指すものに向かって磨かれていくのだろう。
思考を絶やしてはいけない。今、自らの探求心は基礎に裏付けられた跳躍力を有している。
観念の殻を打ち破る、その瞬間を探している。

過去と未来

2008年7月27日 (モーツァルテウム国際音楽アカデミーを終えて)
ドイツ・ミュンヘンへとやって来た。
前回の旅路とは全く正反対の気候。なんとなく懐かしさと抱擁感が入り混じる。

ザルツブルクでの快挙は我ながら見事だった。この2週間という時間を通して、世界との接触に大きな意義を見出すことができた。ここにこれまで創り上げてきたすべての瞬間の流れが終結した。これは紛れもない必然が起こしたことだった。

世界は広かった。世界で瞬間の流れを生み出し続ける人々には、それぞれに何物にも代え難いアイデンティティという時間の積み重ねが備わっていた。彼らは俺とすべてが違い、そして何一つ変わらない。
そう。やはり彼らには想いがあった。情熱とは何か。人が人自身を突き動かす、衝動という名のエネルギーの正体とは。俺にとっては未だ謎めくこの一つの大きな有機体に確固たる必然性を求めて、彼らはそこに自身の存在を見出し、自身の目指す方向へと突き進んでいた。
それは当然、彼らにも守るべき過去があるからこそなせるものに違いない。過去は未来の積み重ねの上に形成される。その事実の下に生きていることは誰一人変わらない。だからこそ彼らは、常に未来を見据えている。

彼らにとっても同じなんだ。自身の可能性に誇りをもって瞬間の流れを作り出す人々。その人々の宿命の前では、もはや過去は未来から生まれ、未来は過去を見出す。自然の摂理の下で、彼らには大きな可能性が与えられる。

そして自然の摂理は共鳴をも生み出す。人々は共鳴し合い、さらなる大きな有機体を築き上げる。もはやそこにはエネルギーと威厳が備わっている。まるで一つの音楽を奏でているように。

さあ、旅はまだまだ終わらない。一歩ずつしっかりと踏み進もう。
もはや未来を見据えられる人間こそが過去を作り出す。

可能性

2008年11月29日
日々に追われる者は、毎日を忙しなく過ごしている。
やらなければならないことが山積し、常に時間に追われている。
魂は疲れ果てている。
目の前のことに囚われるあまり、本来の自分を見失っている。
いつも休みたいと思っている。休むことを渇望している。
束の間の休息を貪った後は、いつも憂鬱に明日を迎える。
現実に打ちひしがれ、ただ気をもまれるままに人生を流され、
生きていることの意味を見出せないのであれば、もはやそれは自分ではない。
好奇心こそが生を導いてくれる。
未知とは可能性をあらわしている。
追い詰められるのではなく、追い込むことに面白さがある。
自らのその姿勢を保つためには、思考を絶やしてはいけない。
そして何よりも、
壁と対峙することこそ、成長の出発点となる。
自らの弱さを責めてはいけない。
人はもともと、未経験の物事を理解できるものではない。
同じものに見えても、これまでとは異なるかつてない要素が含まれているものだ。
恐れることはない。自らを信じよう。

信念

2014年9月10日
「こうありたい」という願望から「こうでなければいけない」という強迫観念が生じ、
結果、自身を精神的に追い詰めてしまうことがある。
理想から目標が生まれ、その目標を達成するための課題と向き合う今この瞬間、
そこに理想との隔たりが生じているという事実をありのまま受け入れなければならない。
善悪是非判断を介さず、自己とそれ以外との違いだけを認識することに努め、
まずは全てを受け入れるだけの器を養う。
意志が強権的であってはならず、心が豊かになることこそ優先されなければならない。
豊かな心とは感謝の心。
理由付けを伴わない、生きとし生けるもの一つ一つへの感謝の念を抱く心である。
そしてそこには当然、自身への感謝も同等のものとして含まれる。
「受け入れられない」という先入観から不安や心配事が生まれる。
いずれ向き合わなければならない課題を受け入れる覚悟と、
その覚悟を養う勇気を持つこと。
「時間がかかっても必ず克服する」という信念があれば、何も恐れることはない。
また、ほとんどの不安や心配事は、自身から生じた錯覚でしかない。
「受け入れられない」と思うことも、その背後関係を知れば受け入れられる、
つまり感謝の念を以って見据えることができるようになる。
自己を滅するのではなく、自己とそれ以外とが混在している状態を受け入れる。

目標

2013年11月4日
人生を限りなく有意義にするために目標を設定することは重要である。
ただ、さらに重要なのは、
自身に最も適応した目標設定の方法・コンセプトを見出し、
安定的に見定めていくことである。
目標の設定は今のあるべき姿に方向性を示し、前進するための道しるべになるが、
同時にそれは可能性を限定していく作業となり、
また具体的すぎる目標は自身を縛り、硬直させる。
目標は近いものほど具体的であり、遠いものほどあえて漠然としているべきである。
大事なのは、将来にわたってできる限り幅広く自らの可能性を保持し続けることであり、
そのための思考を絶やさないことである。
そして今ある自分こそが、
目標という虚像よりもはるかに重要であることを忘れてはならない。

謙虚

2011年11月1日
謙虚であるということはどういうことか。その意味を取り違えてはいけない。
控え目であることは謙虚さの一部を成すことがあるが、
本当に大切なのはそういうことではない。
謙虚な人間は、自己の失敗・未熟さ・遅れに対して動じない。
謙虚な人間は、他者から可能な限りのものを学び、
吸収しようという貪欲さを秘めている。
経験の積み重ねから来る自信は、またそれも非常に大切だが、
それを人と比べたり、過剰になるようなことがあると、
野心と不安の狭間で人は自己を見失う。
「自分などまだまだ」という姿勢を貫くためには、
むしろ脚色の持たない、洗練された本当の自信を持たなければならない。
本当の目で自身を見定めた、生身の大きさの自分でいてこそ、
他者に対する尊敬、敬意を抱き、
そこからたくさんのものを吸収することができる。
とても勇気のいることだ。一度自身の測り方を見失った自信は弱さとなる。
謙虚であるということは、心の継続的な主体性でもって、
不完全な自己の真実を愛するということ。
人は謙虚であることによって、
社会との健全なつながりを紡ぎ出していくことができる。