(講演テーマより抜粋)
子供に漲り溢れ出るその躍動感は、常に絶えることのない好奇心によって支えられている。両親の惜しみない愛情に包まれ、安全圏と確固たる自己を感じ取れる時、子供達はその旺盛な好奇心を存分に発揮するのである。
ドイツでは「本能Instink」という言葉を人に対して用いることを忌み嫌う傾向にあり、それは宗教的・哲学的価値観に基づいた人間の動植物に対する優位性から生じるものである。これに対し日本では、大国主命が兎と言葉を交わすかのように、古くから人と動物は同等の生き物であるという価値観が浸透し、また時に神々として崇められる動植物は、むしろ人間より優位の位置を占めると解釈することもできる。
このような背景から、日本的価値観において「本能」は命あるものとしての本質を司る能力ということができ、それはまた「本能」という表記からも明確に見出されるものである。そして人や動植物は、「本能的に好奇心を備えている」と私は考える。好奇心は命ある物が天地より分け隔てなく与えられる生き物としてのポテンシャルなのである。もっとも、学術にその基礎となる「理」が不可欠であるように、人においてはただ動物的であるのみならず、社会性や概念といった、ある一定の観念的な秩序がその活動において求められるのであり、このように鑑みると、西洋において理性という概念が発達したことも必然的と言えるであろう。
好奇心は躍動感溢れる子供達をその輝ける未来へと先駆する。そんな活き活きとした実感が成長と共に情熱を育んでいく。こうして幼少期に育まれた情熱は人としての快活さを保証し、いくつ歳を重ねても絶えることなくその先の未来へと駆り立てるのであり、そんな溌剌とした人としての在り方は、果ては後世の人々を導く原動力となるはずである。
このように、好奇心は生身の人にとっての動力源であり、そして理性によって縁取られた好奇心の秩序ある発動こそが、命ある人としての本来的な在り方を導くのである。
ブログ
研鑽
2008年7月17日 (モーツァルテウム国際音楽アカデミーにて)
イメージの具現化というのは実に難しい。
自身の持ち合わせている様々な要素を再検討し、そこに新たな要素を加えて再構築する。
今あるものに鋭いメスを入れて、細部に至るまで分解し、
それぞれの感覚を少しずつ丁寧に軌道修正していくという極めて手間のかかる作業だ。
しかしこれこそが実に楽しい。
この作業を根気強く繰り返すことによって新たな自分を導き出すことができるのだ。
やはり具体的なイメージが何よりも大切なのだと思う。
焦ってはいけないし力んでもいけない。
必要なのは粘り強さだ。
外の世界の人々はとても知識に富んでいて羨ましい。
キャリアの違いを目に見えて感じる。
様々な知識は自身の可能性を何倍もの大きさに増幅させる極めて大きな武器だ。
それは音楽との距離感それ自体をも操る。
これからも自身の音楽と時空間に存在する社会性との距離をしっかりと見定めていこう。
日本人
2007年11月24日 (ウィーン滞在中、日本の方々との出会い)
自らの可能性を信じ、自らの夢を求めてこの地へとやってくる日本人たち。
彼らは自分にとって、理想を一つの形にした姿だ。
彼らは異国の地で宿命的に出くわすたくさんの逆境を乗り越え、
今もなお夢を求め、ただ前だけをしっかり見据えて走り続けている。
誰のものでもない、自身の中から生まれ、自ら讃え、戒め、
育ててきたその独自の哲学を各々が胸に秘め、
瞬間の流れに臆することなく、常に自身を見つめている。
自分は、彼らの心こそ大和魂と呼びたい。
大切なのは、何が起こっても自らを信じ続け、
常に自身を見つめ、戒めていること。
彼らから学びとるべきことは数え切れないほどたくさんある。
そんな先輩たちから学びとることはしっかり押さえつつも、
自身から生まれる価値観を常に見ていなければならない。
人々がなぜ音楽に感動するのか。
なぜドラマを見て涙を流すのか。
いったい何に心が動かされているのか。
一つの大きな要因は「共感」にあるのではないか。
人々が自身以外の者の感情を理解するには、その感情を経験していなければならない。
ということは、人々は知らず知らずのうちに、
他の感情に触れ、自らが過去に経験した感情を呼び覚まし、
そこに感傷を抱いて涙を流すのであろう。
昨日、オペラを観て深い感銘を受けてしまったのは、
自らの恋愛に関する複雑な遍歴が作用していることはもはや自明のことであろう。
幅広い経験こそ人として重要な「共感」を生み出し、豊かな人格を育てる。
特に「和」と「共感」を重んじる日本人の端くれである以上、
それを決して忘れることなく自身を見つめていよう。
欧米人
2007年11月27日 (初めてのヨーロッパとの出会い)
ヨーロッパでの一人旅が間もなく終わろうとしている。
今回の旅で得たものは計り知れない。
この地に降り立ってまず最初に発見したものといえば、
やはり「人」というモチーフだろう。
彼らが表現するもの、音楽・美術・建築物など、
全てのモチーフには様々な形で人が用いられていた。
彼らの美意識、美徳、その他全ての価値観には、
「人」という概念が根差していて、
その根源を司っていたのはやはり神であった。
しかしその神という存在もまた、
人というモチーフがすべての元になっているのであろう。
彼らの神への想いもまた初めて見るもので、
多少なりと想像していたそれとはやはりかけ離れていた。
彼らの心を育んだのは神であり、
神を想うことによって彼らは神に見守られてきた。
古より私生活に深く根差してきた彼らの信仰心は、
限りなく普遍的なものであり、
また限りなく美しいものであった。
そうして豊かな人間性を得て、
彼らの営みは栄えていった。
それぞれの町で出会ったそれぞれの独自性は、
人々がごく普通に私生活を営み、
ごく普通に人生を歩むことで図らずも培ってきたもので、
それは幾年も昔よりその地に根を張り、
今もなお瞬間の流れの中に宿っていた。
しかし、彼らもまた「人間」という過ちを犯す生き物であり、
その心には、やはり暗い過去の深い爪痕を残していた。
神は絶対ではないのだ。
そして彼らは生きている。
文化という大きな違いはあれど、
彼らもまた仕事をし、恋愛をし、家族を持ち、泣き、笑い、
その瞬間が来れば死ぬ。
この時間という流れの中で、
彼らも同じように生を分かち合っているのだ。
この旅で得たものは計り知れない。
これから訪れる、いずれは過去となるその瞬間の連なりを歩む上で、
この旅で得たものが大きな影響を及ぼすことはもはや間違いない。
ならばどのようにして歩むべきなのか、やはりそこが、
この旅を価値あるものとする上で最も重要な課題となるだろう。
ヨーロッパでの旅は間もなく終わる。
そしてまた新たな旅が始まり、その新たな旅もまた、
その先へと続くさらなる旅への糧となるだろう。
思考を絶やしてはいけない。
旅は死ぬまで終わらないのだ。
自らの存在価値を見出すということは、
生きるということに他ならない。
残り少ない時間でしっかりと整理していこう、
彼らから学んだたくさんの哲学を。
そしてその先に待ち受けるのは、
また新たな「自らへの価値」なのだ。
存在
2008年1月26日
社会における個人の責務には、
経済や文化の発展などを担う社会活動が挙げられ、
それはこの実世界における“時間生産”という様相を呈しつつ、
日々変化の一途をたどっている。
社会に流れる時間とは、時空間に存在する物理的かつ真理としての時間経過とは異なり、
個人による日々の営みの集合体が深く結合し合い、極めて有機的に形成され、
創造されているものだと考えることができる。
つまり、個人の織り成す小さな瞬間の流れが相互に作用し合い、
交わり、合流を繰り返すことによって、
社会という巨大な大河のような時の流れを創り出している。
一人一人がその一端を担う社会の流れの中で、
各々がいかに“クオリティ”の高い流れを織り成すことができるか、
またその実現に向け邁進することこそが、
社会で生きる上でのモチベーションとなるのだろう。
どんなに非力でも、ちっぽけな存在でも、
個人は常に社会に影響を及ぼし、
社会を支配しているということを意識しなければならない。
もはや自らの存在は、社会によって定義される。
その有機的な在り方こそが、ひいては大きなエネルギー源となり、
自らの存在理由やアイデンティティを指し示すのである。
判断力
(講演テーマより抜粋)
個人による善悪是非判断は、「判断力」に普遍的整合性が認められる場合において絶対的な主体性を保ち得るのであるが、実際は人の判断に普遍的整合性などは生じ得ず、むしろ常日頃から矛盾だらけであることは明らかであろう。自己の健全な存立のためには、主体性は「判断力」において担保されるべきではない。
日本神話においては、登場する神々に性質あるいは能力としての普遍的な整合性を見出すことはできず、それどころか最高神とされる天照大神でさえ、様々な場面で勘違いを起こすのである。
日本の神々に“誤性”という人の本質が投影されていることは、日本人が古来より間違いを犯すこと自体に罪の意識を感じるのではなく、むしろ人を人足らしめる真理と捉え、ヨーロッパのそれのような全知全能の神というものを理想としてこなかったことを如実に物語る。
また、判断はよく必然性と結び付くが、必然性が可能性の範疇を超えないことも日常生活を垣間見れば周知の事実であろう。
「判断」においては、「可能性の選択」としての実質や、下した判断に伴う責任において主体性が認められるものであり、「判断力」においてではない。
このような日本的発想は、ドイツ語圏における価値観との間に明確な相違点を見出す。
ドイツ語における「必然性Notwendigkeit」は、「必要性Nötigung」とほぼ同義語として用いられ、仮に「必要」という言葉の定義に「絶対的」というニュアンス(絶対に要る)を認めることが許されるならば、ドイツ語圏における「必然性」の観念的な絶対的価値が見出される。もしドイツ人が自らの形而上学的信念に則って、“Die Existenz des Gottes ist notwendig.“と説くならば、この文は、「神の存在とは必然」であり、「必要」でもあるということを意味するのである。
そして、人としての潜在的可能性によって出現する理性は、まさに人としての必然なのであり、このような連関から、ドイツ語圏における理性の絶対性という基本的価値観が垣間見られるのである。(現にドイツ人は「理性的vernünftig」という言葉を頻繁に「必然的」という意味で使う。)
これに対し、日本の古来の伝統的価値観においては、「理」とは捉え難いものであり、誠実という純真な在りようが道理に変わるものとして重んじられてきたのである。
天地のはたらきによって生成された人において、天地に対する誠実な在りようとは、相良曰く「主体的・内面的な生き方において捉えられる」ものであり、「心を尽くす」ことである。このように「自然のまま」に生きること、つまり天地の心と一体となることこそが、自己の最も根源に生きることとされ、即ち自己とは天地の自己へと通じるのである。この意味において、物事の善悪是非は「おのずから明らか」となるのであり、それらは個人によって意図的に判断されるものではないということが導き出される。
善悪是非
(講演テーマより抜粋)
人は幼少期からの教育によって物事の善悪を教え込まれる。この場合における子供に対しての善悪是非は、その子供が自立的に社会性を培うための基礎を育むことであり、親や教師の私情が含まれない限り、子供の絶対的価値を何ら否定するものではなく、ここでいうところの善悪是非判断には当たらない。しかしながら、幼少期に吹き込まれたこのような価値観は概して成人してからも根強く残り、日常における様々な機会においてほぼ無意識に個人としての善悪判断がなされ、その延長として事象・対象への是非判断が行われる。
本来、最低限の善悪認識を互いに備えているであろうという前提における大人同士、もはやそのような価値判断は不要であり、むしろそのような価値判断では通じ合えない。そしてそれは、捉える対象が自己である場合も同様である。
道理の在り方は社会や時代、さらには個人の違いによっても大きな隔たりが生じる。近世の儒学者やドイツ観念論者について言われるように、絶対的な理性や道理の在り方を説くものほど互いに否定し合い、攻撃し合う運命にあることは周知の事実である。
現実を道理や理性で捉えようとする姿勢、つまり批判的・解釈的に捉えようとすることがそもそもの不幸の始まりなのである。
また、時に人は「自分は何故こんなこともできないのか」や「自分はこんな立派な人間であり、他者もそれを認めなければならない」といった自己嫌悪や自己顕示に駆り立てられるのであるが、このような現象も超自我的な観念を主体とした心理状態から来る自己の歪みであり、それらは表裏一体の姿である。(ここにおいて「自己の歪み」と表現したのは、理想と現実の狭間における自己の葛藤を指す。)
自己に対するべきは善悪是非ではなく、その誠実さに対する惜しみない信頼であるべきではないだろうか。そして自己に対する善悪是非を退けることができれば、おのずと他者に対しても同様に振る舞うことができるはずである。
活動
2009年6月10日
企業に属して業務に携わるのと、
自らが主体となって活動を行うのとでは、
取り組みに対する覚悟がまるで違う。
当然ながら、自らの活動の方が断然大きな覚悟がいる。
企業の場合、組織という追い風が自らを後押ししてくれるが、
自らの活動は自らが風を起こさない限り、何も動かない。
その活動に人生のすべてをかけるというだけの確固たるプロ意識があって、
初めて道のりを切り開くことができる。
生半可な気持ちで臨んではいけない。
社会に生きる
2016年6月23日
謙虚な心と誠実なる意志に基づく限り、
無駄な取り組みなど存在しない。
謙虚であるためには、いかなる時も前向きでなければならない。
前向きであるためには、確固たる自信を保たなければならない。
自信を保つためには、あふれ出る情熱を絶やしてはならない。
情熱を絶やさないためには、感謝に満ちた情念と敬虔な自己を見失ってはならない。
情念と敬虔さを見失わないためには、自らを形づくってきた社会を見誤ってはならない。
幼少から自身を育んできた社会に少しでも温もりを感じ得るなら、
誠実なる意志は必ず社会を豊かにする。
弱さ
2016年6月13日
「誰かの庇護に甘えたい」、
そんな精神的な弱さがどこかに潜んでいる。
人として当然の姿ではあるが、
歳を追うごとに天地無常の真理は自己の理性を孤独へと追いやる。
「両親の代替え」を探し求めて心の不安を膨らませるのではなく、
無常なる運命の下で天地一体の心を体現する。
それは「時間」という厳しく、はかなくも恵みある真理への絶対的な追従を意味する。
多分、自分は人から嫌われている。
いや、大いに嫌われている。
しかしながら、それでお互い様。
人が完璧ではあり得ないという“誤性”の真理からすると、
嫌われること自体は悪いことではない。
問題は、孤独なる自己の運命を、
悲壮なる覚悟を以って余すことなく受け入れ、
それでいて自己批判と不安を断ち切ることができるかどうか。
天地無常と一体となれるかどうかは、
まさにここにかかっている。