ブログ

存在

2008年1月26日
社会における個人の責務には、
経済や文化の発展などを担う社会活動が挙げられ、
それはこの実世界における“時間生産”という様相を呈しつつ、
日々変化の一途をたどっている。
社会に流れる時間とは、時空間に存在する物理的かつ真理としての時間経過とは異なり、
個人による日々の営みの集合体が深く結合し合い、極めて有機的に形成され、
創造されているものだと考えることができる。
つまり、個人の織り成す小さな瞬間の流れが相互に作用し合い、
交わり、合流を繰り返すことによって、
社会という巨大な大河のような時の流れを創り出している。
一人一人がその一端を担う社会の流れの中で、
各々がいかに“クオリティ”の高い流れを織り成すことができるか、
またその実現に向け邁進することこそが、
社会で生きる上でのモチベーションとなるのだろう。
どんなに非力でも、ちっぽけな存在でも、
個人は常に社会に影響を及ぼし、
社会を支配しているということを意識しなければならない。
もはや自らの存在は、社会によって定義される。
その有機的な在り方こそが、ひいては大きなエネルギー源となり、
自らの存在理由やアイデンティティを指し示すのである。

判断力

(講演テーマより抜粋)
個人による善悪是非判断は、「判断力」に普遍的整合性が認められる場合において絶対的な主体性を保ち得るのであるが、実際は人の判断に普遍的整合性などは生じ得ず、むしろ常日頃から矛盾だらけであることは明らかであろう。自己の健全な存立のためには、主体性は「判断力」において担保されるべきではない。
日本神話においては、登場する神々に性質あるいは能力としての普遍的な整合性を見出すことはできず、それどころか最高神とされる天照大神でさえ、様々な場面で勘違いを起こすのである。
日本の神々に“誤性”という人の本質が投影されていることは、日本人が古来より間違いを犯すこと自体に罪の意識を感じるのではなく、むしろ人を人足らしめる真理と捉え、ヨーロッパのそれのような全知全能の神というものを理想としてこなかったことを如実に物語る。
また、判断はよく必然性と結び付くが、必然性が可能性の範疇を超えないことも日常生活を垣間見れば周知の事実であろう。
「判断」においては、「可能性の選択」としての実質や、下した判断に伴う責任において主体性が認められるものであり、「判断力」においてではない。

このような日本的発想は、ドイツ語圏における価値観との間に明確な相違点を見出す。
ドイツ語における「必然性Notwendigkeit」は、「必要性Nötigkeit」とほぼ同義語として用いられ、仮に「必要」という言葉の定義に「絶対的」というニュアンス(絶対に要る)を認めることが許されるならば、ドイツ語圏における「必然性」の観念的な絶対的価値が見出される。もしドイツ人が自らの形而上学的信念に則って、“Die Existenz des Gottes ist notwendig.“と説くならば、この文は、「神の存在とは必然」であり、「必要」でもあるということを意味するのである。
そして、人としての潜在的可能性によって出現する理性は、まさに人としての必然なのであり、このような連関から、ドイツ語圏における理性の絶対性という基本的価値観が垣間見られるのである。(現にドイツ人は「理性的vernünftig」という言葉を頻繁に「必然的」という意味で使う。)

これに対し、日本の古来の伝統的価値観においては、「理」とは捉え難いものであり、誠実という純真な在りようが道理に変わるものとして重んじられてきたのである。
天地のはたらきによって生成された人において、天地に対する誠実な在りようとは、相良曰く「主体的・内面的な生き方において捉えられる」ものであり、「心を尽くす」ことである。このように「自然のまま」に生きること、つまり天地の心と一体となることこそが、自己の最も根源に生きることとされ、即ち自己とは天地の自己へと通じるのである。この意味において、物事の善悪是非は「おのずから明らか」となるのであり、それらは個人によって意図的に判断されるものではないということが導き出される。

善悪是非

(講演テーマより抜粋)
人は幼少期からの教育によって物事の善悪を教え込まれる。この場合における子供に対しての善悪是非は、その子供が自立的に社会性を培うための基礎を育むことであり、親や教師の私情が含まれない限り、子供の絶対的価値を何ら否定するものではなく、ここでいうところの善悪是非判断には当たらない。しかしながら、幼少期に吹き込まれたこのような価値観は概して成人してからも根強く残り、日常における様々な機会においてほぼ無意識に個人としての善悪判断がなされ、その延長として事象・対象への是非判断が行われる。

本来、最低限の善悪認識を互いに備えているであろうという前提における大人同士、もはやそのような価値判断は不要であり、むしろそのような価値判断では通じ合えない。そしてそれは、捉える対象が自己である場合も同様である。

道理の在り方は社会や時代、さらには個人の違いによっても大きな隔たりが生じる。近世の儒学者やドイツ観念論者について言われるように、絶対的な理性や道理の在り方を説くものほど互いに否定し合い、攻撃し合う運命にあることは周知の事実である。

現実を道理や理性で捉えようとする姿勢、つまり批判的・解釈的に捉えようとすることがそもそもの不幸の始まりなのである。

また、時に人は「自分は何故こんなこともできないのか」や「自分はこんな立派な人間であり、他者もそれを認めなければならない」といった自己嫌悪や自己顕示に駆り立てられるのであるが、このような現象も超自我的な観念を主体とした心理状態から来る自己の歪みであり、それらは表裏一体の姿である。(ここにおいて「自己の歪み」と表現したのは、理想と現実の狭間における自己の葛藤を指す。)

自己に対するべきは善悪是非ではなく、その誠実さに対する惜しみない信頼であるべきではないだろうか。そして自己に対する善悪是非を退けることができれば、おのずと他者に対しても同様に振る舞うことができるはずである。

活動

2009年6月10日
企業に属して業務に携わるのと、
自らが主体となって活動を行うのとでは、
取り組みに対する覚悟がまるで違う。
当然ながら、自らの活動の方が断然大きな覚悟がいる。
企業の場合、組織という追い風が自らを後押ししてくれるが、
自らの活動は自らが風を起こさない限り、何も動かない。
その活動に人生のすべてをかけるというだけの確固たるプロ意識があって、
初めて道のりを切り開くことができる。
生半可な気持ちで臨んではいけない。

社会に生きる

2016年6月23日
謙虚な心と誠実なる意志に基づく限り、
無駄な取り組みなど存在しない。
謙虚であるためには、いかなる時も前向きでなければならない。
前向きであるためには、確固たる自信を保たなければならない。
自信を保つためには、あふれ出る情熱を絶やしてはならない。
情熱を絶やさないためには、感謝に満ちた情念と敬虔な自己を見失ってはならない。
情念と敬虔さを見失わないためには、自らを形づくってきた社会を見誤ってはならない。
幼少から自身を育んできた社会に少しでも温もりを感じ得るなら、
誠実なる意志は必ず社会を豊かにする。

弱さ

2016年6月13日
「誰かの庇護に甘えたい」、
そんな精神的な弱さがどこかに潜んでいる。
人として当然の姿ではあるが、
歳を追うごとに天地無常の真理は自己の理性を孤独へと追いやる。
「両親の代替え」を探し求めて心の不安を膨らませるのではなく、
無常なる運命の下で天地一体の心を体現する。
それは「時間」という厳しく、はかなくも恵みある真理への絶対的な追従を意味する。
多分、自分は人から嫌われている。
いや、大いに嫌われている。
しかしながら、それでお互い様。
人が完璧ではあり得ないという“誤性”の真理からすると、
嫌われること自体は悪いことではない。
問題は、孤独なる自己の運命を、
悲壮なる覚悟を以って余すことなく受け入れ、
それでいて自己批判と不安を断ち切ることができるかどうか。
天地無常と一体となれるかどうかは、
まさにここにかかっている。

囚われ

2016年4月5日
暗闇に感じる不安、見慣れぬものに抱く恐怖がそうであるように、
やむを得ず流れてゆく時間の中で人は時として困惑に苛まれる。
やむを得ざる時間の中では、人は予知し得ぬ未来に怖気づいてしまう。
しかし、純真な子供心に立ち還ってみれば、
それらが恐怖におののくべき負の真理でないことが思い起こされる。
日々のわくわくは、ただただ住む環境の中で見出される躍動感によって基礎づけられ、
それらは常に希望ある未来へと先駆する好奇心によって導き出される。
観念によって構成される仮想的な災いに囚われなければ、
時の流れは常に躍動をもたらす。

自然美

2016年1月12日
日本文化における独創性と欧州的それは根本的に質が違うのかもしれない。
欧州的独創性はイマジネーションの体現であり、
個を原点とするものといえる。
それに比べて日本の独創性は無常なる天地の真理に拠り、
「生」としての躍動感にその本質を求める。
そこに個性は含まれてはいるが、数ある要素の一つに過ぎない。
欧州型の独創性は個の縛りが強く、
複数を無理に同化させようとすればエゴイズムに陥るほかはない。
それに対して日本型の独創性は、
真理としての天地無常の一端を担うことにその本質を据え、
その真理の下で個性は自ずと同化されてゆく。
そこに善悪是非に対する判断は生じないのである。
むしろ多様なるこの相違にこそ自然美を見出す。
それが日本の審美感といえる。
日本の独創性には「時の流れが生み出す創造」という性質が強く現れるのである。
それは不完全や“誤性”という自然の実体への美意識であり、わび・さびに通じるものである。

幸福

2014年10月19日
幸福であるということは感謝の心に満ち溢れているということ。
日々の何気ない暮らしの中で、いかに「満たされている」という事実を感じ取れるか、
それによって、豊かな心は左右される。
当たり前のことが当たり前として存在できない世界がたくさんある中で、
今の自身の置かれる状況が恵まれているということに実感を持たなければならない。
自身が恵まれているという事実をより如実に感じ取れる時こそ、
豊かな心を見出すことが可能になる。
そのためにはまず現状維持に徹すること。
現状を維持することは消極的な姿勢を意味するのではなく、
むしろ積極的に過不足のない現状を実感として見出すことであり、
今この瞬間に充実を得、躍動を感じることを重要視する。
謙虚に自己を受け入れ、常に自己を労うことで、
感謝に満ち溢れた心は体現される。

挑戦

2010年1月12日
全身全霊をかけて挑んでもどうにもならないことがある。
残念だが世の中には必ずある。
でも、全身全霊をかけられるものにはなかなか出会えるものではない。
そんななかなか出会えないものに、幾度となく出会ってきた。
一筋縄ではいかない、どうにもこうにも動かせないものに、
これまで幾度となく出会い、そして挑んできた。
そうした出会いの度、全身全霊をかけてきた。
時には山が動いた。
その時は何物にも代えがたい達成感が溢れた。
しかし、どうにもならないこともたくさんあった。
欲すれば欲するほど苦しんだ。
とにかく苦しかった。
そうしてゆっくりと時間をかけて、現実を受け入れた。
そしてその度に、自分が少しずつ強くなるのを感じた。
全身全霊をかけられるものとの出会いに自分は幸せを感じる。
欲するものへひた向きな情熱を注いでいる時こそ、
自分は自分らしくいられる。
全身全霊をかけている時こそ、生きている喜びを見つける。
だから自分は、いつもひた向きに何かを追い求めていたい。
辛く苦しい想いをすることになっても、全身全霊をかけていたい。
自分らしさだけは失いたくないから。