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ありがとう

(講演テーマより抜粋)
世は無常なるもの。世の中は変わりゆくもの。時の流れの下では一つとして変わらぬものはなく、形を留められるものはない。すべてのものは「有り難い」。そんな「有り難い」ものの存在、そしてその中の思い遣りこそが、世の中、そして人の一生を豊かにする。
生まれてくる命、死にゆく命。生きることでそこには出会いがあり、そして別れがある。その喜びも、その悲しみも、すべては時と共に流れ去ってゆく。
世は無常である。「有」って当然では、失うことへの絶望に苛まれる。しかし、「無」が当然であるならば、束の間の「有」がこの上ない幸せをもたらすのである。
どんなに努力しても、正当性を追求しても、運命の時は必ずやってくる。大切なあの人との別れ。別れがあるからこそ、その運命を受け入れられるからこそ、心から「ありがとう」が湧き上がる。
束の間の人生を共有できたことへの愛おしさ。かけがえのない思い出を与えてくれたことの嬉しさ。限りがあるからこそ、有り難い運命だからこそ、共に歩んでこられたことに幸せを感じる。
人生には出会いと別れがある。誰かが産まれてくるとき、誰かがこの世を去ってゆくとき、人はその人への感謝の念に満ち溢れる。あなたに出会えてよかった。二度と戻ってこない時間を、あなたと共に過ごすことができてよかった。
あなたに与えられたこのかけがえのない温もりを胸に抱きながら、私はこれからを歩んでゆきます。
透き通った無の中で、その果てしない空しさこそが、束の間の「生」とその中の「出会い」を輝かしく引き立てる。そんな有り難い、そしてありがたい人生を分かち合いながら、人々は今日も前へと進んでゆく。

調和と連動

2018年8月7日
日々忙しなく過ぎ去ってゆく日常の中では、人は厄介事に囚われ、
不安に苛まれ、自己を見失いがちになる。
自らの置かれている状況はその全容を見出せず、
ブラックアウトに陥っていることに気づくことすらできないでいる。
時に厳しく、時に残酷なまでに流れゆく時間の中では、それもまた無理はない。
一人の人間が裸一貫で処理できることは物理的に限られていて、
自らの置かれている状況のすべてに気を配ることなどそもそも不可能であり、
それを成し遂げようとすること自体が不毛な試みなのである。
人生を主体的に生きられるかどうかは、比重の問題である。
立ち位置を固め、間合いを確保し、攻めの姿勢を貫くことができるのは、
一重に幼少期から現在に至るまでの温かい思い出に満たされているからであり、
この「憧憬」という感覚こそが自己の核、そして童心の実体である。
その上で、長い目で物事を捉え、自己の限界をわきまえ、
難解な状況にも忍耐と覚悟で以って決然と応えてゆく。
天地における自己の小ささを洞察すれば、
一筋縄ではいかない人生も自ずと前向きに認めることができるようになる。

承認願望

2017年9月22日
欧米人は知性において自己を担保する傾向にあり、
日本人は属性においてそれを担保する傾向にある。
どちらも下地が定まらず、相対価値のみに依拠し、
妄信と自己否定の恐怖からの他者攻撃を誘発しかねない。
「属性」は何よりも和合へと置き換えられなければその本質から乖離する。
和を以て貴しとし、各々が人生経験に基づいて誠実に行動すれば、
生きる意味や、生きるための道筋が明らかになっていく。
時の流れに抗わなければ、はかない人生にも心の拠り所が生まれる。
運命に従うことだけが唯一の拠り所と捉えれば、
自己の思惑に囚われる者は不安に苛まれ、
思惑に執着することを当然と捉えれば、
その実現が保証されない現実社会は不条理の巣窟ということになってしまう。
人の生涯において、思惑とは常に流れ去ってゆくものであり、
思惑からすれば、この世は無慈悲なまでに無常なのだ。
そこに生じる迷いを見つめることを通して心情を深め合うことが、
人との触れ合いにおいての和へとつながる。
承認されていないとすれば、その「承認していない」のはまず自分自身である。
自己の迷いを見つめ、迷いを通して人を知り、
迷いを落ち着かせる「地」を見出す。
天地無常は抗うことのできない運命であり、
自我や自己理解は、物の見方、考え方次第でいかようにも変化する。
まずは迷いが落ち着くべき視座を築くことが大切で、
それは常に天地一体への帰属に依拠するものである。
迷いが生じるのは人としての弱さゆえであり、
人としての弱さこそは生を授かったものの実情、宿命である。
つまり弱さそれこそが「運命」に属するものであり、
生きるということの神秘なのだ。
情が想いを発現し、情熱を焚き起こすことこそが心身一体を生むのであり、
主体的な自己の承認において囚われを振り払い、
決然と生き抜くことを可能にする。

生身の己

2018年1月1日
非日常に心酔しても日常を疎かにしてはいけない。
日常の地を担保するのは、これまで歩んできた道のりと、
そこからもたらされる生きた心地であり、
そこから発せられる「自分らしさ」である。
目標、ビジョン、プランに腐心して目の前の日常が見えないようでは先行きもおぼつかない。
先の見えない時の流れに恐怖すら覚えるのはいたって自然なことである。
そんな中にいてこそ、まずは自己の歩んできた道のりをしっかりと見つめ、
成功を見落とさず、失敗を受け入れ、「生身の己」としての実体と自信を醸成し続ける。
他者と比べることなく、自身が持ち合わせているものそれだけを見つめ、
日常がその上にこそ成り立っている事実を仰ぎ見て、
時の流れに臆する自己を鼓舞してゆく。
長い年月をかけて刻まれる年輪も中を覗いてみなければそのすごみは伝わりづらい。
人生を通して経験したかけがえのない沢山の出来事も、
日常の雑踏の中では見失いがちになり、ましてや活かすこととは程遠い。
自らのアイデンティティをしっかりと見つめ直し、整理し、
雑踏に惑わされることなく保ち続ける。
自らに刻まれた確かな年輪とその価値こそが、
自己を時の流れに根差した揺るぎない巨木へと育て上げてくれる。

多様性

2017年8月16日
人が互いに価値観を以ってつながる時、それは価値観の相違を以って断絶される弱い状態にある。
まさに赤子を慕うかのように、人が互いに思いやりを以ってつながる場合、
それは命あるものとしての本来の姿であり、実体を伴った和の形である。
社会とは人の存在それ自体であり、存在とは世界それ自体に他ならない。
社会の多様性を知り、偏った社会に囚われて気を病むことを断つ。
障害・障壁は常に自分自身に起因し、それは自己の成長において解消され、
また自己の成長そのものをもたらす試練でもある。
他者に変化を求めていては自己の進化を望めない。
自己の主体性において順応のための力を身につける。
「自己の起因」とは観念、理性・知性に囚われた自己の不確かさ、迷いを意味する。
他者の振る舞いを退けようとするのではなく、また無理解の原因を自己に求めるのでもなく、
それらが自己の不確かさを助長してしまう原因となり得ることを洞察し、
決然と向き合う。
主体性が貫かれた上で、初めて障害・障壁の「価値」は見出される。

2017年3月6日
お互いに甘ったれ合うのはやめよう。
甘ったれ合うのではなく想い合うのだ。
自身の信念、想い、価値観が理解されなくても、
思い遣り、助け合いの心を見失ってはいけない。
相手がこちらに価値観を押し付けようとするのは、
一種の甘えであり、人としての弱さでもある。
価値観そのものを合わせてあげることができなくても、
人としての弱さ、誰しもに当てはまるこの部分は、
しっかりと受け止めていこう。
間違いを犯すという人の“誤性”において、
それを克服できない知性は常に不安を生み出す。
知的な人ほど抱える不安は深刻さを帯びる。
相手の不安を癒すことも満たすこともできない。
ただ人は、和を以って寄り添うことができる。

感性

2017年4月17日
より美しく、より洗練され、より優れたものを求めるドイツ人の“審美感”には、
ドイツ社会あるいはその日常の平凡に対する不信、不満、不安が投影されている。
彼らにとっては社会における平均的日常が著しい「欠如」を抱えるものであり、
そこに生じる潜在的な絶望感を紛らわせてくれる理想像を具現化するものこそ、
“審美感”に他ならない。
確かに美的感性は人生をより彩り豊かにアレンジする能力があり、
人々の感動、喜びは美的感性に基づくことが多分にある。
ただ、美的感性が「知性や理性による解釈」を通して構成されると、
その理屈っぽさとドグマにおいて現実離れした理想郷を追い求めるようになり、
実感を逸脱した「快楽としての知性依存」という中毒症状を招く。
感性が実感や現実に即していないとそれが満たされることはなく、
日常における「満たされない感覚」は一種の禁断症状と捉えることができる。
また、キャリアとそこに生じる資本によって富を築き、
理想を具現化し、“審美感”を満たしてしまうと、
今度はそれらを失うことへの不安に苛まれ、平穏な精神が妨げられてしまう。
キャリアは一人の人間の社会的立場の飛躍であり、
それがライセンスや肩書に依拠している場合、
個としての実体を反映していないこともあり得る。
それは一つの歯車が外れることによっていとも簡単に崩れ去ってしまうような、
一種のイリュージョンかもしれない。
そんな危険な地帯に深く根を下ろし、“審美感”の充足に腐心することは、
自己の崩壊を招きかねない。
自己批判を美学とするドイツ民族特有の病的な不安症がここに起因することはまず間違いない。
そこから抜け出すためには、
まず何より人間が本来持ち得ている自然な感性に回帰することが必要ではないだろうか。
日本人なら、子供たちこそ豊かな感性を備えていると直観する。
肌感覚で日常を生き、人生を謳歌することが許されるならば、
人々はもっと穏やかで温かな日々を送ることができるのではないだろうか。

信じる

2017年6月12日
バカは人としての本質であり、人はバカであることから逃れることができない。
自らをバカと称するのは自信の現れであり、それはエネルギーとポテンシャルの源を指し示す。
バカであることから逃れられたとすれば、そこにはもう何もない。
目標なき生のみである。
空虚な失念である。
そしてやっぱり自分はバカだと思い知らされれば、そこに残るのは絶望だけである。
大切なのはバカを互いに強要することではなく、バカを進んで分かち合うこと。
他者のバカさ加減を嘆くことは自己の人間性を貶める。
バカも人それぞれ現れ方が著しく異なる。
そんな中で、理由付けすることなく尊重し合える人倫がバカの本領を導く。
生きる上での98%の不安は無駄に生じる。バカだけにそれを変えられない。
後先考えずに突っ走る。バカだけに危機感が少ない。
知性を妄信することも所詮はバカの一形態に過ぎない。
バカという特性は様々にまたがる自己の主体としての真理を洞察させる。
熱狂と熱中、夢中に没頭。バカな子供はバカ正直にバカを謳歌する。
人はなぜ「夢中になれること」をうらやむのか。
結局は誰しもが自己を見失いたくないからではないか。
“大人”な自分への嫌悪感を抱きながら、没頭できるものへの憧れを募らせる。
理性に翻弄される毎日にあって、かつての童心に恋焦がれる。
日本の神々こそバカであることはよく知られる。
日本ほどバカという特性が肯定される国もないのだ。
まずは信じることから始めよう。
あの頃の子供心に還ることができれば、世界の見え方は変わる。

自己否定

2017年5月6日
不安で満たされた世界では、誰もが自らの保身に徹し、
相手を悪と決めつけ、理解しようという器量すら持たない。
慢性的な不安に苛まれ、それら全てがあたかも特定の人物に起因するかのように解釈し、
その“成分”を除去することへの衝動を蓄積させる。
不安は常に他者の責任となり、懐疑心と絶望を募らせる。
人は社会に対する不信を増大させ、権利と感情のしもべとなる。
家族であろうと友人関係であろうと、互いの失敗や未熟さを批判し合い、
攻撃し合い、またそれにおびえている。
自己に自信がなく、それでいてそれがあるかのように振る舞い、
他者の間違いを探しては、自身の間違いを隠ぺいする。
全ては不安世界がもたらした自己否定の賜物である。
この負の連鎖を断ち切るためにはまず何が求められるのか。
非情な自己否定をもたらす「知性」からの脱却ではないだろうか。
無意味な自己否定はもうやめよう。
いかに無知でも、失敗を繰り返しても、それを涼しい表情で受け止め、
それでいて自己の誠実さを信じるのである。
さもなければ自己はそこから目をそらし、何も学ぶことができない。
ただ自己を信じ切るのである。
さもなければ自己が世界に存在する価値すら否定してしまう。
自己の誠実に絶対的信頼を置けば、自己がこの世界に存在する意味が見え、
この世界の意味が見えてくる。
自己への絶対的な信頼があれば、他者も同じ「人間」であることが見え、
その人間性への信頼が見えてくる。
同じ人間同士、いかに相手が理解し難くとも、人間である自己に絶大な信頼があれば、
まずはその人間性を以って他者との信頼関係を築いていける。
もしも相手を「人間」と認められなければ、その関係を絶つ他はない。
世の中には人間であることをやめてしまった怪物もいるだろう。
ただ、そんな怪物に出くわすことはほとんどない。
それよりもまずは人間を信じていよう。ナイ-ヴでいよう。
無垢ではつらつとした子供心が、その価値を見失わないために。
そしてこの世界に生きる意義と喜びが失われないために。

知性

2017年7月20日
知性に依存し、知性に酔いしれ、知性のみに価値を見出そうとすることこそ、
社会での立場を得ることの妨げをもたらす。
知性は時に自己を酷く陥れる。
知性は自己の和の能力を奪い、自己を人々から隔離し、
外部との接触に恐怖をもたらし、他者を敵対視せしめ、
自己における社会での可能性を蝕む。
知性に囚われていれば見えない可能性との出会いをも失う。
知性にうぬぼれるから未だ日の目を見ない。
主義や派閥を形成することは自己の判断基準を得る上で重要だが、
それらは常に社会の多様性の下においての一部に過ぎないことを見逃してはならない。
知性や自らの判断力を世界の真理なるものと同格に評価することは厄介な妄信であり、
妄信は他者を見下し、軽蔑し、偏った価値観を平然と強要する。
人にはそれぞれ固有の試行錯誤があり、人生での教訓があり、
その上に様々な価値観が生まれる。ただそれだけのことである。