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方向性

2009年6月28日
この方向性を目指し始めてからすでに3年目を迎え、
自らのアイデンティティも沢山の経験や出会いを通して磨かれ続けてきた。
今、このミュンヘン中央駅にあるスターバックスで過ごす時間を通して振り返ってみると、
自らを窮地に陥れる出来事や、自らの存在意義を大きく成長させるチャンスなど、
本当にたくさんのことに出会った。
そして今ここに自身がいることは、それら沢山の出来事こそを自らの血肉を養う糧としてきたことを示す大きな証となる。
ほんのささいな、小さな小さな行いの積み重ねが、外の世界に漂うチャンスを引き寄せ、
またそれが、自らの進む盲目の道のりを照らすかすかな月明かりとなって俺を支えてきてくれた。
自らの方向性は確かに存在する。
躍動は今加速する。まさにこれまでの積み重ねを土台と捉えて基礎に据え、
また新たなアイデンティティが目指すものに向かって磨かれていくのだろう。
思考を絶やしてはいけない。今、自らの探求心は基礎に裏付けられた跳躍力を有している。
観念の殻を打ち破る、その瞬間を探している。

過去と未来

2008年7月27日
ドイツ・ミュンヘンへとやって来た。
前回の旅路とは全く正反対の気候。なんとなく懐かしさと抱擁感が入り混じる。

ザルツブルクでの快挙は我ながら見事だった。この2週間という時間を通して、世界との接触に大きな意義を見出すことができた。ここにこれまで創り上げてきたすべての瞬間の流れが終結した。これは紛れもない必然が起こしたことだった。

世界は広かった。世界で瞬間の流れを生み出し続ける人々には、それぞれに何物にも代え難いアイデンティティという時間の積み重ねが備わっていた。彼らは俺とすべてが違い、そして何一つ変わらない。
そう。やはり彼らには想いがあった。情熱とは何か。人が人自身を突き動かす、衝動という名のエネルギーの正体とは。俺にとっては未だ謎めくこの一つの大きな有機体に確固たる必然性を求めて、彼らはそこに自身の存在を見出し、自身の目指す方向へと突き進んでいた。
それは当然、彼らにも守るべき過去があるからこそなせるものに違いない。過去は未来の積み重ねの上に形成される。その事実の下に生きていることは誰一人変わらない。だからこそ彼らは、常に未来を見据えている。

彼らにとっても同じなんだ。自身の可能性に誇りをもって瞬間の流れを作り出す人々。その人々の宿命の前では、もはや過去は未来から生まれ、未来は過去を見出す。自然の摂理の下で、彼らには大きな可能性が与えられる。

そして自然の摂理は共鳴をも生み出す。人々は共鳴し合い、さらなる大きな有機体を築き上げる。もはやそこにはエネルギーと威厳が備わっている。まるで一つの音楽を奏でているように。

さあ、旅はまだまだ終わらない。一歩ずつしっかりと踏み進もう。
もはや未来を見据えられる人間こそが過去を作り出す。

可能性

2008年11月29日
日々に追われる者は、毎日を忙しなく過ごしている。
やらなければならないことが山積し、常に時間に追われている。
魂は疲れ果てている。
目の前のことに囚われるあまり、本来の自分を見失っている。
いつも休みたいと思っている。休むことを渇望している。
束の間の休息を貪った後は、いつも憂鬱に明日を迎える。
現実に打ちひしがれ、ただ気をもまれるままに人生を流され、
生きていることの意味を見出せないのであれば、もはやそれは自分ではない。
好奇心こそが生を導いてくれる。
未知とは可能性をあらわしている。
追い詰められるのではなく、追い込むことに面白さがある。
自らのその姿勢を保つためには、思考を絶やしてはいけない。
そして何よりも、
壁と対峙することこそ、成長の出発点となる。
自らの弱さを責めてはいけない。
人はもともと、未経験の物事を理解できるものではない。
同じものに見えても、これまでとは異なるかつてない要素が含まれているものだ。
恐れることはない。自らを信じよう。

信念

2014年9月10日
「こうありたい」という願望から「こうでなければいけない」という強迫観念が生じ、
結果、自身を精神的に追い詰めてしまうことがある。
理想から目標が生まれ、その目標を達成するための課題と向き合う今この瞬間、
そこに理想との隔たりが生じているという事実をありのまま受け入れなければならない。
善悪是非判断を介さず、自己とそれ以外との違いだけを認識することに努め、
まずは全てを受け入れるだけの器を養う。
意志が強権的であってはならず、心が豊かになることこそ優先されなければならない。
豊かな心とは感謝の心。
理由付けを伴わない、生きとし生けるもの一つ一つへの感謝の念を抱く心である。
そしてそこには当然、自身への感謝も同等のものとして含まれる。
「受け入れられない」という先入観から不安や心配事が生まれる。
いずれ向き合わなければならない課題を受け入れる覚悟と、
その覚悟を養う勇気を持つこと。
「時間がかかっても必ず克服する」という信念があれば、何も恐れることはない。
また、ほとんどの不安や心配事は、自身から生じた錯覚でしかない。
「受け入れられない」と思うことも、その背後関係を知れば受け入れられる、
つまり感謝の念を以って見据えることができるようになる。
自己を滅するのではなく、自己とそれ以外とが混在している状態を受け入れる。

目標

2013年11月4日
人生を限りなく有意義にするために目標を設定することは重要である。
ただ、さらに重要なのは、
自身に最も適応した目標設定の方法・コンセプトを見出し、
安定的に見定めていくことである。
目標の設定は今のあるべき姿に方向性を示し、前進するための道しるべになるが、
同時にそれは可能性を限定していく作業となり、
また具体的すぎる目標は自信を縛り、硬直させる。
目標は近いものほど具体的であり、遠いものほどあえて漠然としているべきである。
大事なのは、将来にわたってできる限り幅広く自らの可能性を保持し続けることであり、
そのための思考を絶やさないことである。
そして今ある自分こそが、
目標という虚像よりもはるかに重要であることを忘れてはならない。

謙虚

2011年11月1日
謙虚であるということはどういうことか。その意味を取り違えてはいけない。
控え目であることは謙虚さの一部を成すことがあるが、
本当に大切なのはそういうことではない。
謙虚な人間は、自己の失敗・未熟さ・遅れに対して動じない。
謙虚な人間は、他者から可能な限りのものを学び、
吸収しようという貪欲さを秘めている。
経験の積み重ねから来る自信は、またそれも非常に大切だが、
それを人と比べたり、過剰になるようなことがあると、
野心と不安の狭間で人は自己を見失う。
「自分などまだまだ」という姿勢を貫くためには、
むしろ脚色の持たない、洗練された本当の自信を持たなければならない。
本当の目で自身を見定めた、生身の大きさの自分でいてこそ、
他者に対する尊敬、敬意を抱き、
そこからたくさんのものを吸収することができる。
とても勇気のいることだ。一度自身の測り方を見失った自信は弱さとなる。
謙虚であるということは、心の継続的な主体性でもって、
不完全な自己の真実を愛するということ。
人は謙虚であることによって、
社会との健全なつながりを紡ぎ出していくことができる。

価値観

2016年2月1日
価値観とは人それぞれが持つDNAと同じくらい個々人に固有のものであり、
他者のそれとは永久に相容れない。
価値観を他者に押し付けることができると期待するほど、
価値観は孤独の闇に葬り去られ、絶望へと陥る。
“他者によって阻まれる”感覚は、孤独という宿命に根差した価値観の実体に由来する。
決して自己の価値観を蔑ろにしてはならないが、
間違いを犯す人間の本質を省みれば、その正当性に執着することもまた避けなければならない。
結局は自己の価値観が自己を阻んでいるに過ぎないのである。
同様に、無理に他者に合わせようとすることも不毛な試みである。
孤独と無常という運命を受け入れられてこそ、
人は互いに思い遣り、支え合うことが可能となるのである。

2016年10月25日
心とは何か。「生きている」とはどういうことか。
モーツァルトは生きているのか。いや、多分もう死んでいる。
ではモーツァルトの心はどうか。ひょっとするとまだ生きている。
「生きる」とは何を指すのか。身体さえあれば生きているのか。
身体がなければ生きていられないのか。
心とは何か。精神とは何か。意識は人の何を指すのか。
人は何かを通して死んだ人の心を感じ取ることができる。
身体は亡くなっても、心はまだ生きていると感じることが確かにある。
その人が生前努力していたもの、尽力してきたもの、大切にしてきたこと、
人々に託したこと、今も残るその人の活き活きとした遺産には、
間違いなくその人の心が宿っている。
身体を失い、脳を失い、いわゆる意識を失ったその人は、
もう自身の心を感覚することができないのかもしれない。
でも、身体が生きている時だって、意識が常に心を感覚しているわけではない。
「意識する」ことが、生きている心の第一条件ではないのである。
モーツァルトのように何百年間も生き続けることばかりではないかもしれないけれども、
人の心や精神は、確かにどこかで生き続けている。

人生

2016年10月16日
仕事をしていると、職務上の問題がいろいろある。
同じように、生きていると人生はいろいろとある。
大事なのは、仕事と同じように、いかに割り切ってそれらとの間合いを保っていくか。
仕事は仕事と割り切れる。生きているとは何か。人生とは何なのか。
運命と無常の中で、生きていることの意義と人生の価値は悟られなければならない。
仕事も演奏も政治も人生も、“設計主義”に陥ってしまったらロクなことがない。
どんなに高い理想を抱いていても、物事は常に現実が基準・主体となることを忘れてはならない。
設計図は実体を生み出すための動機であり、いわばイメージに過ぎないのである。
心の絶対的な憧憬を祈りにおいて体現することが、主体的な人生を創造する。