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生と死

2020年11月24日
生きることへのみなぎる喜びが確かであれば、
死にゆく運命も、過ぎ去りゆく思い出の切なさも、
真正面から受け止めることができる。
生き甲斐を見据えることで、
人はいかなる時も命の可能性を存分に発揮する。
うじうじしていても死にゆく運命。
人生を完全燃焼させることこそ存在者の意義。
横着せず、横柄な高望みもせず、
ただひたすらちっぽけな身をありのままに立て、
与えられた使命を慎ましくも愚直に全うする。
神に出会うことが容易ではなかったとしても、
死は見逃しようのない絶対的な真理を担う。
もはや死こそが、
人を人足らしめる行動の指針となる。
家族構成が如何様に変遷しようとも、
社会的立場が目まぐるしく変化しても、
死にゆくという運命が変わることはなく、
まただからこそ自己の判別基準を見失うことはない。

慎み

2020年8月22日
出会いとはまさに諸刃の剣。
出会いは自己を豊かにするが、同時に自己を見失わせる危険をはらむ。
多様で異様、そして密な出会いにおいてなお自己の領域を決するものが無常であり、
人は世の無常という真理において自己の限界を知り、
自己の立つべき地を見出すことができる。
慎みこそが自己の輪郭であり、どんなに大胆に行動を起こす時も、
慎みの心だけは忘れてはいけない。
むしろ大胆だからこそ軸足を頑なに保ち、ブレない心で臨むことが求められる。
世の無常に心から甘んじることで、何かを成し遂げるために必要な境地が見えてくる。
大いなる天地とちっぽけな自己。
自己の虚しいまでに非力な真理こそが、
荒波にもまれ苦悩する自己を敬い慕うことを可能にする。
自己の置かれる状況は常に運命によってもたらされるものであり、
たとえそれが、場合によって否定的あるいは批判され得るような様相を呈していても、
決して自己の価値に何かしらの悪影響を及ぼすものではない。
自己の価値は良くも悪くも、状況という表面的な見えで推し量れるものではなく、
そもそもそれは‟はかられる対象”ですらないのである。
「対象」とは特定の主体との相対的な比較によって、
然るべき意義あるいは目的のため客体化される要素だが、
自己というものは相対化することもできなければ、それを試みる意義も存在しない。
慎みは自己の「真」の「心」を示す。
慎みにあってこそ人は自己の本当の可能性を洞察することができる。
慎みは禅であり、調和と躍動を同時に生み出す原動力となる。

教育

2018年9月30日
欧米の教育においては人権や平等といった価値観が主題とされ、
知性や理性によるモラルの定義、個人の人権ばかりが叫ばれる。
その結果、同情心や共感、信頼といった感覚は無用の扱いを受け、
むしろそれらは皮肉や優劣の次元で捉えられ、
もはや倫理としての意義すら失おうとしている。
人と人とのつながりが観念の妄信へと取って代わられつつあるのだ。
人は自己の正当性の保障・主張、他者のそれへの批判・攻撃の方法ばかりを教えられ、
人の温もり、つながり、権利の垣根を超えた支え合いはキレイ事、弱虫の論理、
負け犬の幻想といったイメージを植え付けられる。
これでは人の心はますます孤独になり、冷たく委縮し、エネルギーを失ってゆく。
自然災害や疾病など、やむを得ないことが誰の目にも明らかな時こそ、
人々は情を持ち得るが、
互いの利害が相反する状況などにおいては、
決して心情としての歩み寄りを見せることはなく、
論理や権利という一見して客観的な、仮想的な事物を拠り所として、
相手の人間性、行いを悪や欠落として徹底的に断罪する。
「相手の立場になって…」などという言葉は事なかれ主義者の戯言として切り捨てられ、
個々人の置かれている様々な事情が鑑みられることなどまずない。
一方日本においては、
体罰がどう、暴言・怒号がどうという議論において顕著であるが、
教育上の接し方に過度な人権を求めることが定着しつつあり、
その結果、デリケートな人間の側面をさらにデリケートに扱い、
人間としての強さや信頼、勇ましさはさらに失われつつある。
元々全幅の信頼に甘んじる関係においてこそ厳しい指導も成り立っていたのであり、
それらが崩れ去ってしまったのは、指導方法の是非よりも、
むしろ根本的な信頼関係、温もりや繋がり、人情や慕い、責任や甘えの関係の消失にこそ、
決定的な原因があるのではないか。
「感情的に叱ってはいけない」などというが、
人という存在の真理ともいうべき感情や孤独、感受性などの実情を避けて、
どうして大人が子供を人足らしめることができよう。
それでは子供たちはますます気配りや心遣いのない、他者を顧みることもない、
自己の権利や正当性だけに囚われた哀れな人間へと育ってゆく。
いや、たとえ本人が他者を思い遣りたいと思っても、
自己の権利や正当性を投げ出してまで思いを貫く勇気や、
自己犠牲の精神を持つこともできないのだ。
人の肌感覚や感受性ではなく、理屈として道理をプログラミングする欧米教育に蝕まれ、
大人も子供も、心から接するにはどうすればいいのかがわからなくなってしまっている。
今一度原点に立ち還り、人間としての根本的な在り方を問い直すことが、
現代の世の中には求められるのではないだろうか。

幻想

2020年8月16日
かつては未来へと投影されていた幻想、今はそれをしていた過去へと投影されている。
神秘への愛着は自然との交わりの中で自ずと生じ、
世界の壮大さと生きることのスリルや刺激を洞察させてきた。
その満たされた精神やその感覚への憧憬において、
今は当時の幼い自分を恋慕し、そこに還る術があることを切望する。
物心ついた頃からずっと神秘のとりこになっていた。
底知れぬ未知への好奇心や畏怖の感情に支配されることの快感が生きていることの実感であり、
その喜びに出会うことが日常を生きる上での渇望となってきた。
自分を待ち受ける未来への果てしない幻想を膨らませつつ、
今ここにある世界との出会いにおいては、
過ぎ去り行くその運命に対して既に淡い喪失感と無常感を抱いていた。
言い知れぬ寂しさを振り払うかのように冒険への情熱を燃やし、
世界の果てしない奥行きに恋焦がれ、
挑戦とそれを可能にする勇気を以って、自己の存在を見出してきた。
歳を重ね、日を追うごとに自己の死を強く意識するようになった今、
これまでの冒険を命が尽きるまで貫徹することこそが与えられた使命だと捉え、
またそう信じている。
その使命を全うすることこそ、幼い頃から抱き続けてきた幻想に応えることであり、
過ぎ去っていった時間との出会い、童心への回帰をもたらすことを覚える。
神秘は自分がいくつ歳を重ねても神秘なのであって、
だからこそ、いくつになっても自分は子供でいられる。

ありがとう

(講演テーマより抜粋)
世は無常なるもの。世の中は変わりゆくもの。時の流れの下では一つとして変わらぬものはなく、形を留められるものはない。すべてのものは「有り難い」。そんな「有り難い」ものの存在、そしてその中の思い遣りこそが、世の中、そして人の一生を豊かにする。
生まれてくる命、死にゆく命。生きることでそこには出会いがあり、そして別れがある。その喜びも、その悲しみも、すべては時と共に流れ去ってゆく。
世は無常である。「有」って当然では、失うことへの絶望に苛まれる。しかし、「無」が当然であるならば、束の間の「有」がこの上ない幸せをもたらすのである。
どんなに努力しても、正当性を追求しても、運命の時は必ずやってくる。大切なあの人との別れ。別れがあるからこそ、その運命を受け入れられるからこそ、心から「ありがとう」が湧き上がる。
束の間の人生を共有できたことへの愛おしさ。かけがえのない思い出を与えてくれたことの嬉しさ。限りがあるからこそ、有り難い運命だからこそ、共に歩んでこられたことに幸せを感じる。
人生には出会いと別れがある。誰かが産まれてくるとき、誰かがこの世を去ってゆくとき、人はその人への感謝の念に満ち溢れる。あなたに出会えてよかった。二度と戻ってこない時間を、あなたと共に過ごすことができてよかった。
あなたに与えられたこのかけがえのない温もりを胸に抱きながら、私はこれからを歩んでゆきます。
透き通った無の中で、その果てしない空しさこそが、束の間の「生」とその中の「出会い」を輝かしく引き立てる。そんな有り難い、そしてありがたい人生を分かち合いながら、人々は今日も前へと進んでゆく。

調和と連動

2018年8月7日
日々忙しなく過ぎ去ってゆく日常の中では、人は厄介事に囚われ、
不安に苛まれ、自己を見失いがちになる。
自らの置かれている状況はその全容を見出せず、
ブラックアウトに陥っていることに気づくことすらできないでいる。
時に厳しく、時に残酷なまでに流れゆく時間の中では、それもまた無理はない。
一人の人間が裸一貫で処理できることは物理的に限られていて、
自らの置かれている状況のすべてに気を配ることなどそもそも不可能であり、
それを成し遂げようとすること自体が不毛な試みなのである。
人生を主体的に生きられるかどうかは、比重の問題である。
立ち位置を固め、間合いを確保し、攻めの姿勢を貫くことができるのは、
一重に幼少期から現在に至るまでの温かい思い出に満たされているからであり、
この「憧憬」という感覚こそが自己の核、そして童心の実体である。
その上で、長い目で物事を捉え、自己の限界をわきまえ、
難解な状況にも忍耐と覚悟で以って決然と応えてゆく。
天地における自己の小ささを洞察すれば、
一筋縄ではいかない人生も自ずと前向きに認めることができるようになる。

承認願望

2017年9月22日
欧米人は知性において自己を担保する傾向にあり、
日本人は属性においてそれを担保する傾向にある。
どちらも下地が定まらず、相対価値のみに依拠し、
妄信と自己否定の恐怖からの他者攻撃を誘発しかねない。
「属性」は何よりも和合へと置き換えられなければその本質から乖離する。
和を以て貴しとし、各々が人生経験に基づいて誠実に行動すれば、
生きる意味や、生きるための道筋が明らかになっていく。
時の流れに抗わなければ、天地不定の下に「定め」が現れる。
運命を定めと捉えれば、思念は不安定となり、
思念を常識と捉えれば、社会は非常識の巣窟ということになってしまう。
天地不定において、思念は流れ去るものであり、
思念においては、天地とはあくまで無常なのだ。
そこに生じる迷いを見つめることを通して心情を深め合うことが、
人との触れ合いにおいての和へとつながる。
承認されていないとすれば、その「承認していない」のはまず自分自身である。
自己の迷いを見つめ、迷いを通して人を知り、
迷いを落ち着かせる「地」を見出す。
天地不定は抗うことのできない運命であり、
自我や思念は、物の見方、考え方次第でいかようにも変化する。
まずは迷いが落ち着くべき視座を築くことが大切で、
それは常に天地一体への帰属に依拠するものである。
迷いが生じるのは人としての弱さゆえであり、
人としての弱さこそは生を授かったものの実情、宿命である。
つまり弱さそれこそが「定め」に属するものであり、
生きるということの神秘なのだ。
情が想いを発現し、情熱を焚き起こすことこそが心身一体を生むのであり、
主体的な自己の承認において囚われを振り払い、
決然と生き抜くことを可能にする。

生身の己

2018年1月1日
非日常に心酔しても日常を疎かにしてはいけない。
日常の地を担保するのは、これまで歩んできた道のりと、
そこからもたらされる生きた心地であり、
そこから発せられる「自分らしさ」である。
目標、ビジョン、プランに腐心して目の前の日常が見えないようでは先行きもおぼつかない。
先の見えない時の流れに恐怖すら覚えるのはいたって自然なことである。
そんな中にいてこそ、まずは自己の歩んできた道のりをしっかりと見つめ、
成功を見落とさず、失敗を受け入れ、「生身の己」としての実体と自信を醸成し続ける。
他者と比べることなく、自身が持ち合わせているものそれだけを見つめ、
日常がその上にこそ成り立っている事実を仰ぎ見て、
時の流れに臆する自己を鼓舞してゆく。
長い年月をかけて刻まれる年輪も中を覗いてみなければそのすごみは伝わりづらい。
人生を通して経験したかけがえのない沢山の出来事も、
日常の雑踏の中では見失いがちになり、ましてや活かすこととは程遠い。
自らのアイデンティティをしっかりと見つめ直し、整理し、
雑踏に惑わされることなく保ち続ける。
自らに刻まれた確かな年輪とその価値こそが、
自己を時の流れに根差した揺るぎない巨木へと育て上げてくれる。

多様性

2017年8月16日
人が互いに価値観を以ってつながる時、それは価値観の相違を以って断絶される弱い状態にある。
まさに赤子を慕うかのように、人が互いに思いやりを以ってつながる場合、
それは命あるものとしての本来の姿であり、実体を伴った和の形である。
社会とは人の存在それ自体であり、存在とは世界それ自体に他ならない。
社会の多様性を知り、偏った社会に囚われて気を病むことを断つ。
障害・障壁は常に自分自身に起因し、それは自己の成長において解消され、
また自己の成長そのものをもたらす試練でもある。
他者に変化を求めていては自己の進化を望めない。
自己の主体性において順応のための力を身につける。
「自己の起因」とは観念、理性・知性に囚われた自己の不確かさ、迷いを意味する。
他者の振る舞いを退けようとするのではなく、また無理解の原因を自己に求めるのでもなく、
それらが自己の不確かさを助長してしまう原因となり得ることを洞察し、
決然と向き合う。
主体性が貫かれた上で、初めて障害・障壁の「価値」は見出される。

2017年3月6日
お互いに甘え合うのはやめよう。
甘え合うのではなく想い合うのだ。
自身の信念、想い、価値観が理解されなくても、
思い遣り、助け合いの心を見失ってはいけない。
相手がこちらに価値観を押し付けようとするのは、
一種の甘えであり、人としての弱さでもある。
価値観そのものを合わせてあげることができなくても、
人としての弱さ、誰しもに当てはまるこの部分は、
しっかりと受け止めていこう。
間違いを犯すという人の“誤性”において、
それを克服できない知性は常に不安を生み出す。
知的な人ほど抱える不安は深刻さを帯びる。
相手の不安を癒すことも満たすこともできない。
ただ人は、和を以って寄り添うことができる。