2021年5月24日
ちっぽけな自己の運命。
どんなにつらくても成るようになるし、
どんなにあがいても成るようにしかならない。
だからこそ肩ひじ張らず、ありのままでいこう。
大いなる天地の下に見出される自己は、
まさにカスのようなちっぽけな存在。
ただカスはカスとしての立場を担い、
その存在を全うすることができる。
曲がりなりにも全うしてきた命。
場面場面で残してきた実績。
その実績においてはもたらされた成果よりも、
そこに注ぎ込んだ力とその働きそのものにこそ、
精神の充実と自己の成長を感じることができる。
それがクラブ活動であれ文化祭であれ、
あるいは何かの業績や趣味への没頭であれ、
全てにおいてはその働きそのものにこそ、
精神養成の実績と自己の実存が宿る。
そんな揺るぎない「自負」において、
人は生きることへの活力を育むことができる。
ブログ
長けるということ
2021年10月5日
何かに長けるということは、
同時にその他の何かに疎いことを意味する。
ヴァイオリンに長けている人は概してサッカーに疎い。
ヴァイオリンとサッカーの両方に長けていたとしても、
寿司を巧みに握れるわけではない。
「何かに長ける」とは、
特定の何かに「費やす時間」が長けているのであり、
その他を犠牲にしてきたことからするとそれもまた当然である。
長けているのはまさに時間であり、
時間とはその人物の人生、存在そのものである。
‟その人物に固有の時間”が特定の物事に長けている、
その事実こそが人の実存を形作る。
人生という限りある時間の中で人は長けるべき何かを見つけ、
結果それ以外の何かには疎くなる。
人とはこの意味で元来バカな存在であり、
その飾らず驕らないバカ正直な信念こそは、
日本人が古より重んじてきた誠実の本質なのである。
ありのままということ
2021年4月27日
どう転んでもたった一度しかない人生。
過ぎ去ってしまったものはどうあがいても変えられない。
周りがどうであろうと、自分にはそれ一つしかない。
だからこそ、「動かぬ真実」としての人生の軌跡に宿る、
自己のまさにその本質を決して見逃すことなく、
自己の授かった温もりを決して忘れ去ることなく、
そこにありのままの自分を発見する。
その上で、自己の実体に即した可能性を洞察し、
社会へ還元するため尽力することを生き甲斐とし、
成果そのものは社会に譲ったものと捉え、
それらを私腹として漫然と捉えることを忌む。
自己の社会的立場がいかように変化しようとも、
自己の本質は決して変わることがない。
むしろのぼせ上がると自己を見誤り、
生身としての身を立てることが不可能になる。
人々から授かってきた温もりを見据え、原動力とし、
活力を発揮するその瞬間において、
自己が満たされていることを実感する。
嬉しさ
2020年8月23日
心をアクティブに、主体的に保つことも一つの技である。
その技は自分自身が自己を心から受け入れることによって生まれるのであり、
それを実現させるのは「嬉しい」という素朴な感情である。
いつ何時も嬉しさは過去に起因するものであり、
仮に今この瞬間を嬉しく感じるのだとしても、
元を正せばそれすらも過去に生じた感覚の追体験に基づく。
つまり、顕在的に意識されるかどうかに関わらず、
嬉しさは胸中に常に宿っているのであり、
それこそが生きるための活力の源となるのである。
未来への祈りはこうして生まれるのであり、
天地無常の下にある人間の存在意義を定め、
実りある、価値ある未来へ決然と進むための覚悟となる。
遠い遠い過去の記憶をそっと呼び覚まし、感傷に浸ってみれば、
自己がどこから来るのか、
何によって生成されているのかを確信をもって感じることができ、
その有難さ、喜びに満たされてみれば、
人生にそれ以上を求めることもなくなる。
ただこの有難さこそが全てであり、その持続のため祈り、
それを生成する人々とのつながり、天地とのつながりの中で、
誰かに寄与することに新たな嬉しさを覚える。
満たされていることこそが慎ましさをもたらし、自己の揺るぎなさを生む。
こうして不要な成分をそぎ落とし、
スッキリとまとまった裸一貫の自己は密度を増し、
この凝縮された自己こそが自負となり、「自信」の根底を成すのである。
自己の真実
2020年12月1日
静かに呼吸を整えながら自己の死の姿をイメージしてみる時、
今この瞬間に生きているという自己の紛れもない真実が現れる。
その時に「自分には何もない」と感じる場合、それは自分自身が見えていないのであり、
自己を探し出すための深層心理への旅の始まりを意味する。
「自分は満たされている」と感じる時、
それは自分自身のそれまでの人生を誠実に見据えた真の姿であり、
他者や後世を思いやり、支えることのできる有機的なエネルギーの存在を指し示す。
満たされた幸せを実感すればこそ、自己自身のために生き抜いてきたことが誇りとなり、
そして死に行くという運命でさえ愛おしく感じる。
自己を十分に生きたという実感において、誰かのために尽くすことへの渇望が湧き上がる。
惜しみない愛を注いでくれた人々への想いに浸りつつ、
授かった愛を社会へと還元することがさらなる幸せをもたらす。
試行錯誤
2016年5月25日
いかなる分野においても自己の特性を最適かつ最大限活かせる形が必ずどこかに潜んでいる。
早急の課題はそれらを余すことなく見つけ出す方法を模索すること。
まずはがむしゃらに行動するしかなく、それこそがすべてなのである。
社会の中での自己の立ち位置とその環境を整備することで付加価値が生まれ、収入を得ることができる。
自己の健全かつ有意義な立ち位置を構築する上で、誰かの言動がヒントになるかもしれない。
ただ、自己の最適な立ち位置は誰かに教えてもらえるものでも、またそもそも教わるべきものでもない。
自らが主体的に開拓していくことのみによって成し得るのであり、その決意においてのみ、先人の教えを知恵として活かすことができる。
躍動感あふれる一日一日の営みこそが自らの可能性を導く。
生と死
2020年11月24日
生きることへのみなぎる喜びが確かであれば、
死にゆく運命も、過ぎ去りゆく思い出の切なさも、
真正面から受け止めることができる。
生き甲斐を見据えることで、
人はいかなる時も命の可能性を存分に発揮する。
うじうじしていても死にゆく運命。
人生を完全燃焼させることこそ存在者の意義。
横着せず、横柄な高望みもせず、
ただひたすらちっぽけな身をありのままに立て、
与えられた使命を慎ましくも愚直に全うする。
神に出会うことが容易ではなかったとしても、
死は見逃しようのない絶対的な真理を担う。
もはや死こそが、
人を人足らしめる行動の指針となる。
家族構成が如何様に変遷しようとも、
社会的立場が目まぐるしく変化しても、
死にゆくという運命が変わることはなく、
まただからこそ自己の判別基準を見失うことはない。
慎み
2020年8月22日
出会いとはまさに諸刃の剣。
出会いは自己を豊かにするが、同時に自己を見失わせる危険をはらむ。
多様で異様、そして密な出会いにおいてなお自己の領域を決するものが無常であり、
人は世の無常という真理において自己の限界を知り、
自己の立つべき地を見出すことができる。
慎みこそが自己の輪郭であり、どんなに大胆に行動を起こす時も、
慎みの心だけは忘れてはいけない。
むしろ大胆だからこそ軸足を頑なに保ち、ブレない心で臨むことが求められる。
世の無常にあえて心から甘んじることで、何かを成し遂げるために必要な境地が見えてくる。
大いなる天地とちっぽけな自己。
自己の虚しいまでに非力な真理こそが、
荒波にもまれ苦悩する自己を敬い慕うことを可能にする。
自己の置かれる状況は常に運命によってもたらされるものであり、
たとえそれが、場合によって否定的あるいは批判され得るような様相を呈していても、
決して自己の価値に何かしらの悪影響を及ぼすものではない。
自己の価値は良くも悪くも、状況という表面的な見えで推し量れるものではなく、
そもそもそれは‟はかられる対象”ですらないのである。
「対象」とは特定の主体との相対的な比較によって、
然るべき意義あるいは目的のため客体化される要素だが、
自己というものは相対化することもできなければ、それを試みる意義も存在しない。
慎みは自己の「真」の「心」を示す。
慎みにあってこそ人は自己の本当の可能性を洞察することができる。
慎みは禅であり、調和と躍動を同時に生み出す原動力となる。
教育
2018年9月30日
欧米の教育においては人権や平等といった価値観が主題とされ、
知性や理性によるモラルの定義、個人の人権ばかりが叫ばれる。
その結果、同情心や共感、信頼といった感覚は無用の扱いを受け、
むしろそれらは皮肉や優劣の次元で捉えられ、
もはや倫理としての意義すら失おうとしている。
人と人とのつながりが観念の妄信へと取って代わられつつあるのだ。
人は自己の正当性の保障・主張、他者のそれへの批判・攻撃の方法ばかりを教えられ、
人の温もり、つながり、権利の垣根を超えた支え合いはキレイ事、弱虫の論理、
負け犬の幻想といったイメージを植え付けられる。
これでは人の心はますます孤独になり、冷たく委縮し、エネルギーを失ってゆく。
自然災害や疾病など、やむを得ないことが誰の目にも明らかな時こそ、
人々は情を持ち得るが、
互いの利害が相反する状況などにおいては、
決して心情としての歩み寄りを見せることはなく、
論理や権利という一見して客観的な、仮想的な事物を拠り所として、
相手の人間性、行いを悪や欠落として徹底的に断罪する。
「相手の立場になって…」などという言葉は事なかれ主義者の戯言として切り捨てられ、
個々人の置かれている様々な事情が鑑みられることなどまずない。
一方日本においては、
体罰がどう、暴言・怒号がどうという議論において顕著であるが、
教育上の接し方に過度な人権を求めることが定着しつつあり、
その結果、デリケートな人間の側面をさらにデリケートに扱い、
人間としての強さや信頼、勇ましさはさらに失われつつある。
元々全幅の信頼に甘んじる関係においてこそ厳しい指導も成り立っていたのであり、
それらが崩れ去ってしまったのは、指導方法の是非よりも、
むしろ根本的な信頼関係、温もりや繋がり、人情や慕い、責任や甘えの関係の消失にこそ、
決定的な原因があるのではないか。
「感情的に叱ってはいけない」などというが、
人という存在の真理ともいうべき感情や孤独、感受性などの実情を避けて、
どうして大人が子供を人足らしめることができよう。
それでは子供たちはますます気配りや心遣いのない、他者を顧みることもない、
自己の権利や正当性だけに囚われた哀れな人間へと育ってゆく。
いや、たとえ本人が他者を思い遣りたいと思っても、
自己の権利や正当性を投げ出してまで思いを貫く勇気や、
自己犠牲の精神を持つこともできないのだ。
人の肌感覚や感受性ではなく、理屈として道理をプログラミングする欧米教育に蝕まれ、
大人も子供も、心から接するにはどうすればいいのかがわからなくなってしまっている。
今一度原点に立ち還り、人間としての根本的な在り方を問い直すことが、
現代の世の中には求められるのではないだろうか。
幻想
2020年8月16日
かつては未来へと投影されていた幻想、今はそれをしていた過去へと投影されている。
神秘への愛着は自然との交わりの中で自ずと生じ、
世界の壮大さと生きることのスリルや刺激を洞察させてきた。
その満たされた精神やその感覚への憧憬において、
今は当時の幼い自分を恋慕し、そこに還る術があることを切望する。
物心ついた頃からずっと神秘のとりこになっていた。
底知れぬ未知への好奇心や畏怖の感情に支配されることの快感が生きていることの実感であり、
その喜びに出会うことが日常を生きる上での渇望となってきた。
自分を待ち受ける未来への果てしない幻想を膨らませつつ、
今ここにある世界との出会いにおいては、
過ぎ去り行くその運命に対して既に淡い喪失感と無常感を抱いていた。
言い知れぬ寂しさを振り払うかのように冒険への情熱を燃やし、
世界の果てしない奥行きに恋焦がれ、
挑戦とそれを可能にする勇気を以って、自己の存在を見出してきた。
歳を重ね、日を追うごとに自己の死を強く意識するようになった今、
これまでの冒険を命が尽きるまで貫徹することこそが与えられた使命だと捉え、
またそう信じている。
その使命を全うすることこそ、幼い頃から抱き続けてきた幻想に応えることであり、
過ぎ去っていった時間との出会い、童心への回帰をもたらすことを覚える。
神秘は自分がいくつ歳を重ねても神秘なのであって、
だからこそ、いくつになっても自分は子供でいられる。